還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
近現代 一二二~一二四代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
京都・洛北「八瀬童子」の里へ
一二四代/昭和(しょうわ)天皇陵
諱/裕 仁 ひろひと(迪宮・みちのみや)
在位年/西暦一九二六~一九八九年
陵形/上円下方
皇居/皇居(東京都)
所在地 武藏野陵 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地
最寄駅 JR・京王「高尾」下車、約2.5km、徒歩約40分。
「八瀬童子」の里、八瀬へは叡山電車叡山本線「出町柳」より乗車、最寄り駅「八瀬比叡山口」を下車。そこからは徒歩またはタクシーになる。比叡山の麓、高野川周辺の自然豊かな地にその集落がある。
「八瀬童子」とは、中世から多くの天皇の身近で輿(こし)や棺(ひつぎ)を担ぐ役目、また日常の風呂を沸かす仕事などを賜っていた。今日でも「天皇家に最も身近な庶民」と言われている。また、そのルーツは「最澄(伝教大師)」が使役した「鬼(酒呑童子)」の子孫とされる伝説もある。天皇または公家などとの関係も古く、672年(36代・弘文天皇)の「壬申の乱」の際、背中に矢を受けた「大海人皇子」が窯風呂で傷を癒したと伝承に残っている。それにちなみ、多くの窯風呂が作られ、中世以降、公家たちの湯治場となった。
1336年には、足利尊氏の軍勢を避け比叡山に向かい京を脱出した「96代・後醍醐天皇」、その輿を担ぎ護衛を八瀬童子らが担った。その結果、比叡山に逃れることができた。この功績により「地租課役」の永代免除になった、その中より選ばれた者が輿丁(よてい・輿などを担ぐ者)として朝廷に出仕し、天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事となった。
1912年(大正元年)「明治天皇」の葬送にあたり、棺を陸軍と海軍のいずれが担ぐかが紛糾した、その調停案として「八瀬童子」を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活したのだ。その後、「大正天皇」の崩御の際にはひつぎを担ぎ、「昭和天皇」の即位の際には、三種の神器の一つを運んだ。1989年(平成元年)「昭和天皇」の葬送では、棺を自動車(轜車)によって運ばれることとなり、八瀬童子会から数名の代表者がオブザーバーとして付従した。
※1928年(昭和3年)、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって「社団法人八瀬童子会」が組織された、2023年では約110世帯が所属している。
交通機関での移動を断念し、歩かずに済む車で目的地「八瀬」に向かった。出町柳から国道367号、ほぼ一本道約20分ほどで集落に到着した。集落は高野川を挟むように並んでいた、近くの空き地に断りを入れ駐車させていただいた。
散策するため「八瀬大橋」を渡ろうとすれば「窯風呂」の看板が見えた。
「八瀬かまぶろ温泉 ふるさと」と言う旅館のようだ、この日は休館中だった。その直ぐ側に、京都市登録有形民族文化財に指定されている「旧跡のかまぶろ」が展示されていた。これが「大海人皇子」の傷を治した「かまぶろ」か・・・、そんな訳がない(笑)。風呂というよりも、ネィティブアメリカンのスウェット・ロッジに似ている、遺伝子的には近い民族だからだろうか。
徒歩・約5分で「八瀬天満宮社」の鳥居前に到着した。八瀬童子の年表もありわかりやすい。
そして、その横の石碑には「平成天皇・美智子皇后」の御歌が刻まれていた。
「大君の 御幸(みゆき)祝ふと 八瀬童子 踊りくれたり 月若き夜に」
150mほど田畑に挟まれた山道を歩けば「八瀬天満宮社・本殿」に着いた。
参拝後、周囲を注意深く見渡せば目的のモノを見つけた。
小さな祠の後ろ側に!
古い石碑には「後醍醐天皇御旧跡」と彫られている、天皇と八瀬童子の深い関係を感じる。「昭和天皇」の葬送で棺を担いでいただきたかった・・・。