vol.13 旅を始める前に
50年の「旅」は、感謝の「旅」へ <完結編その2>

旅を始める前に リレーエッセイ第十三回

東海道への道のりは苦難だらけ

 ようやく旅話になってきた(笑)。「大阪・東京間の徒歩旅」の事を振り返ってみよう。

 平成4年(1993年)4月22日に大阪南部から奈良県天理市に向かう。初日から約40kmの歩行の上、途中、雨にもやられホテルに退避・・・ヘタレ度満開の出発となった。翌日(23日)はせっかく歩くのだから国道を避け、山中を進み「三重県伊賀市」に向かうため「外輪坂」と何やら訳ありな名の道を行く。

 これが大失敗!! 途中から道に迷い、ほぼ獣道、唯一の目印は猟師さんか林業関係の方が付けた轍だけを頼りに上へ上へ昇っていくだけだった(最悪のことを考えていた、早くも遭難!?)。6時間ほど山中を彷徨い歩いて、ようやく里の入口付近と思われる道になった、はるか向こうに「赤い清涼飲料水の自動販売機」を見つけた時は「ほっ」とした。たどり着かなければ、出発2日目にして中止になっていた・・・。

 その日は歩く気力もなく、宿営できる所を町役場で聞くため向かった。役場で事情を話せば、「シーズンオフで開けてないが、『はなはなビレッジ・キャンプ場』のログハウスを使えば良い」と親切に案内をしてくれカギを開けてくださった。本当に今でも萩町役場の方々に感謝しています! この日の歩行距離はたったの約17kmで終わった・・・。

天理市から出発し、怪しげな獣道を彷徨い、親切な町の方に救われた「バカ2人」です。ありがとうございました!

 その翌日(24日)「三重県伊賀市」約25km、「三重県亀山市・関宿」まで約30kmを歩き「JR関駅」にて宿営。この時代は地方の中核駅でものんびりとしていて、終電が出た後にはルールを守れば旅人たちに解放されていた(大目に見てくれていただけだろう・笑)。

 ここでやっと「東海道」に合流した、「関宿」より約20kmの「鈴鹿市・JR河曲駅(25日泊)」にて宿営。この駅は高校の最寄駅のようで、朝起きたなら女子高生が遠巻きに冷たい視線を送っていた。お邪魔して、すみません。

こんな風に終電後の駅で過ごした、待合椅子は寝袋を敷けば簡易ベッドになる。関宿の街並みは美しかった。
高校生のザワつきで目が覚めた「河曲駅」

 次の大都会は名古屋なので、野宿は難しい(苦笑)手前の「JR長島駅(26日泊)」にて宿営、歩行距離は約28kmで終わった。ここにきて「M氏」の足に異変が出始めていた・・・。

 翌朝27日、「M氏」の足を診れば足の裏には「豆」が10コほど出来ている、これは当然だとして、弁慶の泣き所「脛」が腫れていた。ふくらはぎでは無く、脛の前部が見た事のない腫れ方なのだ! これは無理をさせる訳にもいかず、「歩きたい所だけを歩いて、その他は無理をせずに交通機関を使え」と話し、彼も納得した。その場合、「その日の目的地を決めて合流する、待ち合わせ時間は私が来るまで」とルールを決め、それに、「その日の宿営に適した場所のピックアップと食事の素材を購入する」バックアップをお願いした。

 その話合いの後、27日の歩行がスタートする、この日の合流場所は「桶狭間」近くの「名鉄・中京競馬場前駅」にすることにした。「JR長島駅」より「名鉄・中京競馬場前駅」間、約30kmを単独歩し15時前に「M氏」と合流、すると彼は帽子を脱ぎ頭を見せた。なんと! 丸坊主にしている!! 丸坊主といえば停学か野球部以外に考えつかなかったので聞いてみた。彼は「歩けなくなったのが悔しく、自戒を込めて丸坊主にした」と、・・・失礼ながら疲れも忘れ、ただ爆笑だった(笑い)。この日の歩行距離は「名鉄・宇頭駅」まで約47km。

この日より「M氏」は坊主になった、まるで修行僧の如く(笑)。
今でもこの時の話しをすれば大笑いする、いい思い出だな。

旅での出会いが、足の痛みを和らげる

 次の日(28日・29日)からは、雨が続き傘を差しながらの歩行。二日間で愛知県を出て静岡県湖西市の「JR新所原駅」まで約47km。

 翌日30日は雨の中の歩行で疲れが溜まっていたので「JR浜松駅」までの約26km。5月1日は静岡県島田市「JR金谷駅」まで歩いたと思う(この辺りの記憶が曖昧で写真を見て判断)歩行距離は約42km。

 この辺りの記憶が曖昧なのは、日中に雨が降ることが多かったので雨が止んだ夜間に歩いていたからなのです。その途中だと思うのだけれど、掛川駅で掛川市役所職員2人に声を掛けてもらい、焼き鳥とビールをご馳走していただいた。それも、旅のいい思い出です「その節はご馳走になりありがとうございました!」。

雨の中の歩行が続き、少し苛つき気味・・・そんな時の優しい誘いに胸が打たれた。先輩の職員さんが「自分も昔、歩いていたんだ」と話してくれた。
とにかく、雨、雨、雨だ・・・、由比の美しい風景すら記憶にない。ほうほうの体で清水に着いた。

 5月2日 静岡県清水市「JR清水駅」まで約45km。この歩行中にズボンが破れ、雨の中ガムテープで塞ぎ歩いていたが都会の清水では恥ずかしくジーンズショップで安いズボンを購入する。

 5月3日 この辺りから「M氏」の足も回復?と言うより痛みに慣れ、1日の行程を共に歩くことが出来るようになっていた。本日は「JR沼津駅」まで約42kmの道のりを歩く。だが、夜間歩行を続けていたこともあり二人の疲労がピークに達していた、行程の4分の3を過ぎたところ「JR東田子の浦駅」で昼食を取った後は立ち上がるのも辛い状況になっていた。歩行スピードは普通の歩行者にも抜かれるほど遅くなっている。

 とぼとぼと2人歩いていると、先ほど私達を追い抜かしていった「迷彩ズボン」のおじさん(失礼ですね・笑)が話しかけてきた。話を聞けば「元警察官で49歳(昨年)に大病を患い、退院後に体力を戻すため静岡県内の旧東海道宿場を歩いている」立花勲さんと出会った。私達の歩行姿を見て「相当、疲れているな」と感じ声を掛けてくださったそうだ。

 私達の目的地(本日の)「JR沼津駅」と分かり、旧東海道を歩くより旧国道1号線を進めてくださった。このアドバイスのお陰で残りの道のりが2、3割りショートカットできた(喜)。なんとか歩みを進め6時前、もうすぐで「JR沼津駅」前方には歩道橋が見えた、そこに立花さんが立っていた!? 「10分ほど前に到着して君たちを待っていた」と、きっと心配で待っていてくれたんだと感謝し3人で「JR沼津駅」に到着した。その後、記念撮影をし再々会を約束してそれぞれの目標に進むため分かれた。

 後日談だが、旅を終えた3ヶ月後に立花さんから一冊の手記が送られてきた。「闘病記・もう一度の努力を」というタイトルのその文中には私達の出合のことが綴られている。その手記は今でも大切に保管している、旅の宝物だから。

送って頂いた「闘病記・もう一度の努力を」と記念写真。
旅から10年くらいはハガキのやり取りがあった、その後はどうしていらっしゃるのか。
この便利な時代でも分からない、もう一度お会いしたいです。

ゴールはまじか、それが全ての始まりになる

 5月4日、いよいよ「天下の剣・箱根峠」を越え関東に突入する。朝、「JR沼津駅」近くの安宿よりスタート、順調に「JR三島駅」を過ぎたころより昇りに変っていった。覚悟はしていたが、緩い坂とワインディングした道を歩いていると、いつの間にか峠のピークに達していた?! まったくもって拍子抜けの峠道だ。これが「天下の剣」と謳われた「箱根峠」とは、情けないなどと悪態をつき、この日は「芦ノ湖」の安宿に泊まる事にした。5月と言えど朝晩は冷える、それに野生動物を警戒して野宿は止めた。この日の歩行距離は約23km。

 翌5日、「箱根関所跡」を拝見し、順調に下り道を歩く。途中、箱根湯本の「白山神社」で何やら「端午の節句」を祝っていたので餅をたべ小休止。そのまま「JR小田原駅」に向かい下っていく、小田原も都会で野宿は無理と感じ先に行く事にした。「JR小田原駅」より3駅歩いた「JR二宮駅」で早めの宿営地を探し、大都会に向かうためのドレスコードを整えるためにコインランドリーで洗濯をする(かなり臭いはずだから・笑)。歩行距離は約28km。

「箱根観光」ハイキングを終え、宿営地近くのコインランドリーで洗濯と休憩を取る。
待っている間、いつの間にか寝入ってしまった・・・すみません。

 5月6日、本日はとうとう神奈川県を目指し首都圏内に突入する予定。朝早の出発、この旅一番の夏日に苦しみながらも「茅ヶ崎」を通過、ペースが掴めず必要以上の時間を掛けて夜「JR戸塚駅」に到着(歩行距離・約30km)。終電が出た後に駅前にて宿営地を決め休んでいたら、おまわりさんが来て立ち退きを命令された・・・、この旅初の出来事だ。「都会は世知辛い」などと言いながら素直にしたがった。仕方がないので夜間歩行にて「横浜」を目指す事にした。夜明け前に「JR横浜駅」前に到着、バスのベンチにて就寝(完全なるルンペン状態で・苦笑)。累計歩行距離は約42km。

夜間歩行を余儀なくさせられて、「横浜駅前」の長距離バスターミナルでふて寝する私。
翌日は横浜歴史観光をし徐々に多摩川方面へ。

 夜間歩行がたたり、5月7日昼前に「JR横浜駅」前を出発。この日の宿営地に選んだのは神奈川県と東京都の境「多摩川土手」、歩行距離は約13kmほど観光気分で歩くことにした。「JR横浜駅」から5kmほどの史蹟「生麦事件の碑」などを見てゆるりとすごした。日落ちを待って「多摩川土手」宿営地に到着。到着後、「M氏」がリュックをゴソゴソと何かを出した、それは日本酒の小瓶だった。「ゴール前に一緒に呑もうと思って買ったんだ」、ここにきてなんと気の利く奴だ(喜)! 私たちは、その日本酒を交互に呑みながら、静かな多摩川を黙って見つめていた。明日はゴール。

県都境、多摩川を越える。乾杯の日本酒、忘れられない一献です。多摩川の土手で野宿(笑)。

 5月8日早朝「多摩川土手」からスタート、「東京駅・八重洲口」まで約18kmの距離、午前中のゴールを目指し歩く。蒲田を越えた辺りから「M氏」の様子がおかしい「足が痛いのか?」と聞いたが違うみたいだ。気にせず歩くことにするが、やはり遅れがちの「M氏」にもう一度聞けば「腹が痛く、もう限界~! 先に進んでくれ」と言い何処かに消えた。置いていくこともできず、その場で暫く待つと姿を現した。「何処でどうしたか」など野暮なことは言わず前に進んだ。今のように町中そこらにコンビニなどない時代、どうしたのか30年後の現在でも謎のまま(笑)。

 そうして午前10時過ぎ、「東京駅・八重洲口」に到着、この旅のゴールを迎えた。到着した私たちは共に感動を味合うより、淡々として寧ろ達成できた安堵感を感じていた。ただ、目の前を通り過ぎる多くの人々の中、東京駅八重洲口には私たち二人しか居なかった。

 翌日、簡単な東京観光をして、翌10日帰路につく。「M氏」の帰る場所は、現在働いている制作プロダクション、彼は「もう少し、今のところで頑張るわ」と、私は「立ち上げた新しい会社」へ旅立った。

旅が終わり、旅が始まる。ありがとう、君に。ありがとう、自分に。
荒野へと歩みは続いた。
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