汝に神が与えし一瞬

キューバ共和国 ハバナ・デル・エステ市 コヒマル

god

時には思いもよらぬことが起きる特に旅先で、
神のいたずらとでもいうのか
そんな一瞬を捕らえた、

一期一会の風景
 

shoot  IV

キューバ共和国
ハバナ・デル・エステ市 コヒマル 
小説『老人と海』のモデル
故グレゴリオ・フエンテスとの記念の一枚

 

グレゴリオ・フエンテス
グレゴリオ・フエンテス
2000年当時、102歳の「老人と海(ヘミングウェイ)」のモデルとなったグレゴリオ・フエンテスさん
グレゴリオ・フエンテス
神が与えし一枚の記念撮影。撮ってくれたのはグレゴリオさんのひ孫さん、ありがとう。

 今回の一枚はただの記念写真、だがこの一枚には深い思い出がある。神がお与えになったとしか思えない、時間を過ごしたのだ。また、この旅自体も奇跡といえるのだろう、まずはそこからこの話を始めたい。

 それは、今から20年前の2000年の春に、そのころ仕事をしていたアメリカ系航空会社の企画の方から連絡があった。『いつも、無理ばかりいっているので、どこか行きたい所はありませんか?』と唐突に聞かれた、そう聞かれてもすぐに答えられるものでもないが、頭には一国の名前が浮かんでいた。「キューバ」だ、それを彼に伝えた、もちろん彼は絶句した。

 なぜかといえば、当時のアメリカとキューバには国交がなく、不安定な状態が続いていたからなのだ、その上、アメリカ系航空会社の予算でキューバへ行くなんてあり得ない話だった。彼は『少し時間をください』と言い電話を切った、私は期待せずに過ごすことにした。それから約3ヶ月の夏の日に彼から『行けますよ!Goです!キューバに』と返事をもらった、無理だと思っていた旅が叶ったのだが、喜びよりも「どうして行ける様になったのか?」「彼は無理をしたんじゃないだろうか?」と疑問が湧いた。

 だが、答えは簡単だった、頭をすり替えただけなのだ。即ち、航空会社主体ではなく旅行会社の要望でサポート(バジェットを出す)するという絡繰りだ(うまく考えたものだ・笑)。ただ、不安もあった、旅行会社主体ではロケ地などを優先的に決められてしまうことだ。その不安を即座に伝えたら、彼は『先方からのオーダーはキューバらしい写真ならOK、基本、自由に取れますよ』と、辣腕企画マンに感謝感動。『一応、社会主義の国なので許可申請に時間が掛かるのでロケ地候補を提出してください』と言われ、直ぐさま取りかかり提出した。

 絶対に撮影したいモノは大きく2つ、ひとつは国営キャバレーの音楽レビュー・ショー『トロピカーナ』。そして、もうひとつは『アーネスト・ヘミングウェイ』の軌跡を辿りたいことだった。その中でも「老人と海」のモデルとなった、ヘミングウェイの友人(釣りの相棒)であったグレゴリオ・フエンテスさん(102歳)にお会いすることが一番の目的だった。

 グレゴリオさんの取材は国営ツアープログラムにちゃんとあるので、そんなに難しいことではない、15分50USドルくらいだった(苦笑)。ただ、15分の間に撮影とインタビューが出来るのか? 当日の朝までの不安材料だったことを今でも覚えている。

 店に入り案内されたのは、大きな窓から街を見渡せる、この店一番のいい席だった。観光局スタッフとの挨拶も終わり、何気なく外を見れば、少しだが雲が切れてきた様子。「むむっ」これはもしかすれば西日が射すかもしれない、行かなければ、外へ出なければ! 焦る気持ちを抑えて、ボスに「ちょっと、見てきます。先に食べていて下さい」と。ボスは「今日はもういいだろう」と言ったのだが、一度言い出したら止めることが出来ないと分かっている、アゴをしゃくり無言で「行って来い」と送り出してくれた。

 外に出ると、街全体が茜色のベールに包まれている、霧や黄砂とも違う透明度が高く見たことがない現象だ。四五機材を抱えて兎に角、大聖堂前に急いだ。そこで見た風景は、柔らかいピンク色の光に包まれて建つ『クライストチャーチ大聖堂』。その姿は「慈愛に満ち溢れている」とでも表現すればいいのか、それ以外の言葉が見つからなかった、通りすがりのキューイ達(ニュージーランド人の敬称)も足を止め眺めている。五分もすれば元の世界に戻るはずだ、まさしく、神が与えしい一瞬。幸先のよいファーストカットが撮れ、このツアーもうまくいくと思ったが、天候に悩まされるツアーになることはまだ知る由も無かった。そのことは次にでも話そう。
 

ヘミングウェイの胸像
ヘミングウェイの胸像
ヘミングウェイの胸像
コヒマルの海を笑顔で眺めるヘミングウェイの胸像。青空が美しい日和だ。
ラ・テラサ
ラ・テラサ
ラ・テラサ
ミングウェイが常連だったレストラン「ラ・テラサ」、一階にはBARカウンター、二階からはコヒマルの海が眺められる。

 良く晴れた青空が広がるハバナ市街のホテルからコヒマルに向かった、市街地から海底トンネルをくぐり15分ほど走るとヘミングウェイが愛したコヒマルの海が見える。コヒマルの町に入れば、ヘミングウェイご用達のレストラン「ラ・テラサ」があった、目的地は直ぐそこだ。通り沿いにある、普通の民家からグレゴリオさんのひ孫さんが迎えてくれた、そしてリビングへ、そこには活字世界の主人公が、悠々と深く椅子に座り葉巻をふかしている姿が目に入った、もう感動しかなかった。数秒間、体が固まった(笑)、こんなことは今までにない衝撃だ、与えられた時間は15分、あいさつもそこそこにしてバタバタと撮影アングルを決めていきフィルムを廻し始めた。決めのアングルは撮り終えて、後は相方(天皇陵巡りの赤木氏だ)に任しインタビューに専念したのだ。

 残り時間が5分もない、焦って時計ばかりを見ている私に102歳の翁がやさしく言った『ここはキューバのコヒマルだ、慌てる必要はない』『ゆっくり、話そう』と。マネージメントをしているひ孫さんの顔を見た「こんな日は珍しいから時間を気にせずやってくれ」とのことだ(もちろん、通訳のアルマンドが言ったのだが・笑)。

 聞きたいことを聞き、一段落した時に翁が『君たちはずっと、2人でやっているのか?』『どこを旅した?』と逆に質問攻めにされた(笑)。私と相方はひとつひとつに丁寧に答えた、もう時間は気にせずに、あっという間に1時間が過ぎた、ご老体にこれ以上はダメだと思い、相方に合図を送り締めようとした。

 最後に翁はこう言った『お前たちを見ていたら、ヘミングウェイと2人、海原を旅していたことを思い出したよ』『これからもオレたちと同様に2人で旅を続けていけ、必ず何かが見えるはずだ』。
 私たちは答えた「何かが見えるまでそうします、ありがとう。」と

 2002年に悲しい知らせが届いた、グレゴリオ・フエンテスさんが永眠された、104歳の大往生だ。きっと、ヘミングウェイと2人、大好きな海で旅を楽しんでいるだろう。
 私たちも久しぶりに2人で旅にでも出ようか、もちろん、まだこの世で(笑)。
 

ヘミングウェイ博物館
ヘミングウェイ博物館
ヘミングウェイ博物館
ヘミングウェイ博物館、規制線を越えさせて頂き撮影した。
コヒマル
ヘミングウェイが愛したコヒマルの海。
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