還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
「中之庄上ノ山古墳」と同じ丘陵の西にある「黄金塚陵墓参考地」
崇道尽敬皇帝・舎人親王陵(黄金塚陵墓参考地)
尊号/崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝
御名/舎人親王
生没年/西暦676年(天武天皇5年)~735年(天平7年)
時代/飛鳥時代から奈良時代
続柄/天武天皇(父)、淳仁天皇(子)
陵名/黄金塚陵墓参考地
陵形/方墳
所在地 黄金塚陵墓参考地 奈良県奈良市田中町
最寄駅 JR桜井線「帯解」下車、約1.6km、徒歩約25分。
「舎人親王」は西暦676年、「大海人皇子(四〇代・天武天皇)」の第六皇子として誕生、「四七代・淳仁天皇」の父でもあり、「日本書紀」編修事業の総裁を務めたことでも知られる。
西暦720年(養老4年)に「日本書紀」(紀30巻・系図1巻)を奏上した、その年に朝廷最大の実力者だった右大臣「藤原不比等」の薨去に伴って、「舎人親王」は朝廷の要職に就き「新田部親王(天武天皇の皇子)」「長屋王(天智天皇と天武天皇の孫)」ともに皇親政権を樹立する。
西暦735年(天平7年)に薨去。その後、第七王子の「大炊王」が「四七代・淳仁天皇」に即位することにより、西暦759年(天平宝字3年)天皇の父として「崇道尽敬皇帝」の諡号を追贈された。
その御陵は「延喜諸陵式」に墓所の記載がないが、宮内庁管理の「黄金塚陵墓参考地(帯解黄金塚古墳)」とされている。だが2009年(平成21年)の発掘調査の結果、7世紀半頃「飛鳥時代」の築造と推定され、薨去した年代とは整合しないことが判明している。その他にも大和郡山市「松尾寺」の十三重塔や、京都市伏見区の「伏見稲荷大社」の地にあった「藤尾社」などが伝承墓として伝えられている。
県道187号線から竹藪が続く脇道を進む、左手に墓地を見ながら坂道を登る。途中、道標がある、ここからさらに竹藪に挟まれた細い道を進む。
猪が現れそうだ、クマよけの鈴を鳴らして前に進んだ(苦笑)。
薮道の先に表示板が見える、ここが「黄金塚陵墓参考地」だ。
過去に訪問した御陵と違い荒涼としたうら寂しい陵墓だ・・・。
大和郡山市にある「松尾寺」、「舎人親王」の毛骨を祀る塚へ
「舎人親王」開基で日本最古の厄除霊場と言われている「松尾寺」。JR大和路線「大和小泉」より、約4km・・・約1時間かけ歩いて着いた「松尾寺」の「北総門」。また階段だ・・・、山寺はツラい。
階段を登り境内へ、見事な三重塔が目に入る。その傍には、ひっそりと石で作られた「十三重塔」が佇んでいる。
舎人親王の毛骨を祀って立てられたと言われている塚だ。
「南惣門」から約300mほど古道を歩けば、「舎人親王」が観音さまとお会いになった?「舎人親王伏し拝み伝の地」がある。ここも、うら寂しい・・・野生動物が怖いので帰ることにした。