還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
近現代 一二二~一二四代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
武藏野陵(昭和天皇陵)
一二四代/昭和(しょうわ)天皇陵
諱/裕 仁 ひろひと(迪宮・みちのみや)
在位年/西暦一九二六~一九八九年
陵形/上円下方
皇居/皇居(東京都)
所在地 武藏野陵 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地
最寄駅 JR・京王「高尾」下車、約2.5km、徒歩約40分。
「124代・昭和天皇」は1901年(明治34年)に皇太子・嘉仁親王(のちの大正天皇)と同妃節子(のちの貞明皇后)の第1皇子として誕生する。弟宮は「秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王の三宮がおられる。
少年期には「乃木希典」を院長とする「学習院初等科」に通学、御卒業後は「東郷平八郎」を総裁とする「東宮御学問所」で御教育を受けた。
その後、1916年(大正5年)に立太子を迎え、日本の皇太子として初めて他国の王室などを訪問。訪問国はイギリス王国、フランス共和国、ベルギー王国、イタリア王国など欧州の国々。帰国後の1921年(大正10年)より、父帝・大正天皇の病気悪化により摂政に就任する。1926年(大正15年また昭和元年)12月25日、「大正天皇」の崩御に伴い皇位継承し、第124代天皇として践祚した。
1941年(昭和16年)9月6日に行なわれた「第6回御前会議」は、国民世論・報道機関などの声を利用した一部の主要閣僚・軍首脳により、太平洋戦争への開戦を余儀なくされた。同年12月1日、第8回御前会議で対米英開戦を決定、大東亜戦争(太平洋戦争)に突入した。
1945年(昭和20年)5月の本土空襲で宮城の宮殿が炎上、同年6月には沖縄戦組織的戦闘終結、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8日にソ連の対日参戦、9日には長崎市への原子爆弾投下。この惨状をうけて「昭和天皇」は、連合国による「ポツダム宣言」の受諾を決断した。8月10日の第14回御前会議では、主要閣僚・軍首脳の賛否が割れる中、いわゆる「終戦の聖断」を披瀝し8月15日に終戦となった。尚、8月15日ラジオ放送において、終戦を伝える玉音放送が日本史上初めて、天皇の肉声が一般国民に伝えられることになった。
戦後、「昭和天皇」は1946年(昭和21年)1月1日に俗にいう「人間宣言」を渙発せれた。1952年(昭和27年)4月28日に平和条約(サンフランシスコ講和条約)を終結、日本は再び国家主権回復した。その年に戦後初めて、「伊勢神宮」「初代・神武天皇陵(畝傍山陵)」「明治天皇陵(伏見桃山陵)」を親拝せれ、10には天皇・皇后が揃って靖国神社にも親拝された。
激動期の御代をお送りになられた「昭和天皇」は、1989年(昭和64年)1月7日に崩御された。「26代・継体天皇」以降から記録が残る歴代天皇の中で在位期間が最も長い天皇。
大正天皇陵の手前に御陵へと向かう分岐道がある。進めば、すぐに見えてくる。
右手には「香淳皇后」の「武蔵野東陵」、奥が「昭和天皇」の「武藏野陵」。
緑が美しい参道を進む、昭和世代の私にとっては神々しい御陵に感じる。
緊張感を持ちつつ御陵に近づき参拝をした。
感無量の参拝。ここで書く言葉がない・・・。
武蔵野東陵(香淳皇后陵)
きた参道を戻り香淳皇后陵に参拝。お二人の御陵を一つの画額で収める。
世界の恒久平和を祈りこの旅を終える。