vol.12 旅を始める前に
50年の「旅」は、感謝の「旅」へ <完結編その1> 

旅を始める前に リレーエッセイ第十二回

否が応でも「社会」という世界へ、道は進む

 話は前編の大学卒業から続き、なんとか(苦笑)昭和63年(1988年)にハレて社会人になる。最初に就職した広告制作会社での初仕事は、暗室でのトレスコープ(現在の若いデザイナーは知らないと思う・笑)という転写機を使っての「紙焼き」作業だ。出社し朝すぐに、暗室に入り、お昼の休憩後にふたたび暗室へ、その暗闇から開放されるのは夜・・・、一日明るい陽を見ずに過ごす日々が続く(苦笑)。これは、当時まだ残っていた新人シゴキだったんだろう、まぁ、何も出来ない新人だから仕方がないと思う・・・。その後、1年ほどで退社した(苦笑)、理由は簡単で仕事を覚え「ここで学ぶべき事が無さそう」だったからだ。今、考えると申し訳ない気持ちで一杯です、すみません(笑)。ただ、そんな会社でもここで大切な出会いがあった、今現在も続く友との出合いが。この「ソノひびヨリ」にも寄稿(出演)してくれている「M氏」、彼も長らく現役で広告業界で活躍している一人だ。彼とは仕事以外でこの後に大きな旅に出た。その「旅」の話はまたあとにする。

 時代はまだバブルの名残があり、次の会社もすんなり決まった。印刷の本質を学びたかったので印刷会社のデザイン部署へ入社、だが1年を待たず、家の事情で退職。この「家の事情」の事は、ここで詳しく書く必要もないので割愛です(笑)。ただ言うなら25歳(当時)にして家族を亡くし、職もなく、やる気も失った失意の中の時代だった。そんな時に一つの決断をした。
 それは初の海外旅行に出ることだ! 一度、今迄のことや今迄覚えたものを「リセット」にするために、行くなら表現の最先端がいいと無謀にも行き先はニューヨークにした。約4週間ほど、知人を頼っての貧乏旅行&武者修行に出た。

ニューヨーク、アメリカの象徴「自由の女神」だ。
お上りさんの私は当たり前の如くリバティー島観光(笑)。

「アナログ時代」に新しい情報を求めての旅立ち


 2月のニューヨークは思った以上に極寒で驚いたのだが、目的は全てインドアなので凌ぐことができた。その目的はニューヨークのアートシーンを片っ端からみることと決めていた。美術館なら「MOMA(近代美術館)」「ホイットニー美術館」「グッケンハイム美術館(この時は工事のため長期の休館に入ったところだった・残念)」、SOHO地区に密集しているギャラリー巡り、お金が続く限りブロードウェイミュージカルを観賞する。当時は、今のようにSNSなどなく、紙媒体だけが頼りだった、即ち、日本で獲れる情報は数ヶ月前の情報で行き当たりばったりの旅だ。それでも、ギャラリー巡りなどは本当に楽しかった! 当時のSOHO地区は、現在のようなハイソ感は皆無で大阪の「アメリカ村」のような町で、若手アーティストが気軽に個展ができるギャラリーが多くあった。
 傷心を抱えた私だったが、めくるめく世界に圧倒されわずか4週間の旅で生まれ変わり(笑)、リスタートするためにニューヨークの旅を終えた

再開発前の「ソーホー地区」、あの頃は貧乏アーティストが世界中から集まって来ていた。
日本の「円」がまだまだ強かった頃の「タイムズスクエア」、その証に日清カップヌードルの広告が輝いている。
「タイムズスクエア」から100mも歩けば「ブロードウェイ」!! 
当時のプリント写真がわずかに残っていた。それに思い出の「キャッツ」のパンフレット、
帰国後も日本人キャストの「キャッツ」を数回観劇した。
たが、「ブロードウェイ」で観た「キャッツ」を超えるものはなかった。

 思い起こすと、この旅で一番印象に残っているのは、なぜかニューヨークアートシーンではなく、長逗留した安宿なんだ(笑)。
 この安宿には、初日から悩まされた・・・、夜0時を廻り出したころから「カーンカーンカーン」と金属音が鳴り響くのだ、なんだかき気味が悪いし眠れない。翌晩、勇気を出してその音の元を探しだせば、スチームヒーターのパイプの中からだった(苦笑)。このスチームヒーターは各部屋でスイッチを切ることが出来ないため、ここでの長逗留の間、この音と付き合わなければならなかった。後半に入ると慣れてきて、音がすればパイプに向かって「ハイハイ、今日も小人の鍛冶屋さんは商売繁盛ですね」と語りかけ就寝した。一体、あの音は何だったんだろうか・・・。

34番街-ヘラルドスクエア駅からほど近い、
NY観光の名所「エンパイア・ステート・ビル」。お上り観光、二つめです。
「セントラルパーク」の近くに建つ名建築「カーネギーホール」と
伝説のミュージックホール「ラジオシティ・ミュージックホール」
「ラジオシティ・ミュージックホール」から直ぐの「ロックフェラー・センター」、「セント・パトリック大聖堂」。

もうすぐ、荒波に向かい漕ぎ出す時が来る

 そうして帰国した翌日、私はとある制作プロダクションへ向かった。その制作プロダクションは、出国前「M氏」が私の無職を気にして面接を進めてくれたプロダクションだ。面接は出発前に受けていて、なんと面接当日に合格を頂いたが、お互いに何も知らないので1週間ほどお見合い期間(インターン?)として働いてから、それぞれの答えを出しませんかと提案した。社長も納得してくれ1週間働き、その後にニューヨークに旅立った。この日はお互い(かたや社長さんだが・笑)に返事をするために向かった。
 当然その日から、社会人(デザイナー)に復帰して働くことになった。今でもここを進めてくれた「M氏」には感謝をしている。

ニューヨーカーのオアシス「セントルパーク」。この広い公園の中、
周辺には「動物園、メトロポリタン美術館、自然史博物館、グッゲンハイム美術館」がある。
とにかく広い(縦に長いので)ので歩くのに疲れた・・。

 そうしてサラリーマンデザイナーとして数年過ごしていた、ただ心は満たされてはいまま、惰性で仕事をし怠惰な日々を過ごしていた。27歳を迎える年(平成4年・1992年)に「ある」決断(またです・笑)をした、それは「制作プロダクション」を立ち上げて独立することだった。時代は既にバブルの残りカスも無いほどの経済不況に突入していた、厳しく険しい未来に不安を感じながらも希望を胸にして進むしかなかった(笑)。
 そんな不安に打ち勝つために、「今、一番苦しい事をやろう」と意味の分からない事を考えはじめた。それは「原点」に戻り、立ち上げの5月中旬まで旅をすることだ、大阪・東京間の徒歩旅に挑戦することにした。その計画を同僚であり友の「M氏」に打ち明けた、すると彼も同行したいと言いだしたのだ!?。 話を聞けば、彼も現状に疑問を持っていて自問自答を繰り返していると言う、その答えを見つけるために旅をしたいと。
 そうして、平成4年(1993年)春に「野宿徒歩旅」の道具をリュックに詰め込みスタートを切った。隣りには「M氏」が歩いている、一抹の不安を抱きながらのスタートだった。

※当時の写真がほぼ紛失していたので、写真は2000年当時を掲載しています。
写真協力 Mr.Aさん感謝です。

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