第一三六回 莵道稚郎子 宇治墓 <前編>
天皇陵・外伝編-03

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

播磨国風土記には「宇治天皇」と記されている皇子

莵道稚郎子 宇治墓(京都府宇治市)

御名/莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)
生没年/生年不詳~壬申年
時代/古墳時代
続柄/一五代・応神天皇(父) 一六代・仁徳天皇(異母兄)
墓名/宇治墓
陵形/前方後円

所在地 宇治墓 京都府宇治市莵道丸山 
最寄駅 京阪宇治線「宇治」下車、約五五〇m、徒歩八分。

 「莵道稚郎子」は「一五代・応神天皇」の皇子で『日本書紀』には皇太子とも記されている。その『日本書紀』では、父「応神天皇」の寵愛を受けて立太子(皇太子)されるも、異母兄の「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと・後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自死したと伝わる。『古事記』においては「夭折」とされている、また『播磨国風土記』では「莵道稚郎子」と思われる人物を「宇治天皇」と表現されている謎多き人物。その名前の如く「菟道(うじ)」が現在の「宇治(京都府宇治市)」の古代表記であることから、宇治地域との関連が深く、この地に「菟道宮(うじのみや)」を営んだとも伝わる。

 その墓は、江戸時代・中期まで所在は不明となっていたが、『日本書紀』の記述に基づき「朝日山(宇治上神社後背)」山頂が墓所とされ墓碑を建立した。その後、明治二二年に「丸山古墳」に治定され「宇治墓」となり宮内庁の管理下に入った、その陵形は前方後円とされている。
 
 

宇治駅より北側を見れば、こんもりとした杜が見える。
「お茶と宇治のまち歴史公園」より「宇治墓」の全貌を望む。
杜に近づくと参道が目に入る。参道に入り歩けば、瞬く間に拝所に到着。
御陵でも無いのだが美しく整備されていた、さすがは追尊天皇クラスの墓だ。
御陵の近くには、「莵道稚郎子墓の陪塚」がある、民家の庭かと間違いかけたが宮内庁の立札を見つけ一安心。

この「陪塚」には、平安時代初期の文人「賀陽豊年」が眠っている。彼は「菟道稚郎子」に感銘し、死後には「是非とも陪冢への埋葬を」言ったらしい。その願いを、嵯峨天皇に聞き入れてもらいここに埋葬された・・・変わった人だ。

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