第九一回 一〇六代 正親町天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
室町・安土桃山時代 一〇二~一〇七代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

深草北陵(正親町天皇陵)

深草北陵(深草十二帝陵)と正親町天皇勅令により開山した「大雲院」

一〇六代/正親町(おおぎまち)天皇陵
諱/方仁 みちひと
在位年/西暦一五五七~一五八六年
陵形/方形堂
皇居/京都御所 

所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。

 1517年、「105代・後奈良天皇」の第一皇子として生まれる、1557年に父の「後奈良天皇」の崩御によって践祚した。だが過去の戦乱により朝廷の貧窮が続いており、即位2年後にして「即位の礼」を挙げた。その費用は西国の戦国大名「毛利元就」から献納を受けたことにより挙行することができたが、朝廷の財政は相変わらず逼迫が続き、権威も落ちていた。

 その後1568年、彗星の如く現れた「織田信長」は「正親町天皇を保護する」という大義名分により、京都の治安を守ることで政治力をつけた。この信長の恩恵で、皇室や公家たちは危機的状況から救われた。

 だが、その見返りとして天皇の権威を利用して、信長の敵対勢力に対する講和の勅命を実現させた。1570年の浅井・朝倉との戦い、1573年の足利義昭との戦い、1580年石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも「正親町天皇」の勅命によるものと伝えられている。「織田信長」の没後に豊臣氏へ政権が移った後も、「豊臣秀吉」により多大な御料地や黄金を献上し「正親町天皇」を支えたが、政権の後ろ楯として利用した。

 その御陵は、「深草十二帝陵」とも称されている深草北陵。また、京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内「月輪陵」には「灰塚」がある。
 

正親町天皇勅令により開山された「大雲院・大雲院跡」

 前回に続き今回も「深草北陵」だ、なので「正親町天皇」の足跡を求め京都の市中にきた。京阪本線「祇園四条」より「八坂神社」を左手に歩いて約15分「大雲院」に到着。ここは「本能寺の変」で非業の死を遂げた信長親子の冥福を祈るために天皇勅令により開山されたお寺だ。ただここは戦後(太平洋戦争)に移された場所なので「大雲院跡」に向かう。

上・駅より「ねねの道」に向かう途中にある山門、ここからは入れない。
下・「ねねの道」にある山門、ここが入り口なのか? 朝なので柵があった、ただここは戦後(太平洋戦争)に移された場所なので「大雲院跡」に向かう。

「大雲院跡」に向かうには、きた道を戻り・・・京阪本線「祇園四条」の逆側に歩く、約20分ほどだが(苦笑)。近代的な街並みの中に「大雲院跡」の「火除天満宮」があった。この天満宮は「大雲院」が開創されるときに鎮守社として迎えられたらしい。1864年の「蛤御門の変」で奇跡的に焼け残ったことで「火除天満宮」と呼ばれ出したのだろうか。

もう一つの石碑にも信長・信忠親子のことが書かれている。参拝のため本殿に向かうと、ビルとビルの間に鳥居がある、京都らしいと言えば京都らしい(笑)。

織田信長が正親町天皇皇子誠仁親皇に献上した「二条殿跡」

次に向かったのが「二条殿跡」。ここは信長が「正親町天皇」の皇子「誠仁親皇」に献上した「二条殿」の跡地。現在は「京都国際マンガミュージアム」にも使われている。

信長は「誠仁親皇」を次の天皇にしたかったんだろうな、夢は儚いものだ。

そこから隣通りの「室町通り」にも「二条殿 御池跡」の石碑がある。民家の玄関前、バイクのカバーに隠されるように石碑があった・・・、これも京都らしい。文化遺産は日常の中にあるので有り難みがないのだろうか(笑)。

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