還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二

御 名 市 辺 押 磐 皇 子(いちのへのおしはのみこ)
生没年 生年不詳~安康天皇三年
時 代 古墳時代
続 柄 一七代・履中天皇(父) 二三代・顕宗天皇(子) 二四代・仁賢天皇(子)
墓 名 市辺忍歯別命山陵(熊の森古墳)
陵 形 前方後円
所在地 滋賀県東近江市妙法寺町
最寄駅 近江鉄道本線「八日市」下車、約四km、徒歩五〇分。
江戸時代に治定された、もう一つの墓「市辺忍歯別命山陵(熊の森古墳)」
「磐坂市辺押磐皇子墓」を明治期に宮内庁が治定する以前は、「市辺押磐皇子」の墓とされていた「市辺忍歯別命山陵(熊の森古墳)」。場所は宮内庁治定の「磐坂市辺押磐皇子墓」より約五kmほど東、東近江市妙法寺町の田畑の中にある。陵形は全長約三〇mほどの前方後円墳(と言われている)。

磐坂市辺押磐皇子墓の最寄駅「長谷野」まで一旦戻り、一駅隣の「八日市」まで乗車することにした、歩けば約六kmもあるからだ。それでも「八日市」から四km弱もある、約五〇分ほどの歩き旅だ・・・。
住宅街を抜け、田園の中をひたすら歩くと墳丘らしき小高い丘を発見した。

墳丘らしき前にママチャリが止っている・・・、丘の周りにはコンクリートと思われるガレが散乱している・・・。果たしてここが「市辺忍歯別命山陵(熊の森古墳)」なのだろうか?
恐る恐る近づいてみた、違えば、また歩かねばならないからだ。

近づいていくと大小二つの墓標が建っていた、大きな方には「「市辺忍歯別命山陵」と刻まれ、小さな墓標に「碑 市辺皇子」とされていた。

前方後円墳の可能性があると書かれていたので、周囲をぐるりと廻ってみたが分からない・・・。

う~ん、やはり分からない。ただ、逆光の水田が美しかったから、たまには本気で一枚撮影するのだ(笑)。
あと一箇所、皇子の墓がある。福井県の山中らしい・・・、日を改めて行くことにした。

