還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
未だ分からない被葬者の「鵺塚陵墓参考地」

追号/後高倉院(ごたかくらいん)
御名/守貞親王 行助入道親王
生没年/西暦1179年(治承3年)~1223年(貞応2年)
時代/平安から鎌倉時代
続柄/高倉天皇(父) 後堀河天皇(子)
陵名/鵺塚陵墓参考地
陵形/未 定
所在地 鵺塚陵墓参考地 京都府京都市東山区本町15丁目
最寄駅 京阪本線「鳥羽街道」下車、約七〇〇m、徒歩約一二分。
追号天皇とは、追尊天皇と同じく生前に天皇として即位しなかった親王などに、死後贈られる天皇の称号。ただ、追号は、諡の一形態に属しているが、正式な諡号ではないとされている。
その「後高倉院(守貞親王)」は、「八〇代・高倉天皇」の第二皇子として生まれる。1221年(承久3年)の「承久の乱」の混乱により、「守貞親王(行助入道親王)」に皇嗣が回ってきたのだが、親王は既に出家していたため即位できず、その子である「茂仁王」を即位させた。これにて、一〇歳の幼き天皇「八六代・後堀河天皇」が誕生したのだった。
同時に幼き天皇を補佐するため、「守貞親王」は天皇の父として「治天の君」となり、皇位を経ずして「太上法皇(出家していたため太上天皇ではなく法皇した)」として院政を行った。だが、院政を開始してわずか二年足らずで崩御した。
その陵墓は分かっていない、京都市東山区本町にある「鵺塚陵墓参考地」の被葬者候補が「後高倉院(守貞親王)」と言われている。

京阪本線「鳥羽街道」から「東福寺」方面を目指し歩いた。途中、「勅使門」があった、ここから緩やかな坂道を上る。

閑静な住宅街を抜けると、小高い丘が見えた。仲恭天皇の「九條陵」がある丘だ。
石段を上り詰めれば、すぐ右手に「鵺塚陵墓参考地」があった。


向かって左が「鵺塚陵墓参考地」。
この参考地は、昭和三〇年代に都市計画により移葬されたらしい。元々は、岡崎公園にあったそうだ、そのためか現在は指定解除された陵墓参考地。

右側は「後高倉院」の皇女「尊称皇后利子内親王」が候補者になっている「秘陵墓参考地(ひめづか)」だ。

その候補地の奥には「75代・崇徳天皇皇后聖子」の「月輪南陵」がある。