第四二話 大阪府堺市
古代、中世、幕末、近代のメルティングポット堺へ
その1 環濠北側エリア

ソノひびヨリ

2025年 11月3日

環濠都市の中心を南北に走る「紀州街道」大道筋と路面電車。環濠北側エリア「綾之町」電停

南海本線「なんば」から約10分で中世の環濠都市「堺」に到着

 大阪南の玄関口「なんば」から南海本線で瞬く間に「堺」に到着、駅ビルを出ると現れるのが「前方後円墳」をモチーフにした?巨大モニュメント。さすがは世界最大級の墳墓にして世界遺産「仁徳天皇陵(大山陵)」の所在地だけある。地方駅前にあるあるモニュメントだけど、いつ見ても「これっているの?」と疑問を持ちますが、気を取り直し駅前のロータリー(東側)を一周。再度、駅ビルに入り、半地下?にある「堺駅観光案内所」へ向かった。

ガラス張りの駅ビルの東側に聳える巨大モニュメント。地方の駅に行くと多いんだよね、このタイプ(笑)
案内板には1階と書かれているけど、地上より下の階にある「堺駅観光案内所」

 観光案内所に向かったのには訳があるのです、堺の「名所・旧跡・史跡」は調べると広範囲に点在しているのです。歩いて巡るにはちょっと難しいそうなので、レンタサイクルを借りることにしました。レンタサイクルは一日借りて(9時~17時30分まで)普通自転車・500円、電動アシスト自転車・1000円とリーズナブルな価格、堺には自転車メーカーの「シマノ」の本社があるからかなぁ。

 案内所内に「堺観光ガイドブック」「堺観光マップ」は当然、「おみやげ」も販売されていて「古墳グッズ」が一番の売れ筋だと言ってました。それに、今どきのインスタスポットには、中世の宣教師「フランシスコ・ザビエル」さんがおられました(笑)! 等身大の「フランシスコ・ザビエル」さん、良くできています。会ったことはありませんが(笑)。

左・南蛮貿易の屏風パネルを背景に腰掛けた姿の「フランシスコ・ザビエル」。FRP製です。
右・堺の「名所・旧跡」の情報が「二次元コード」で読み取れる、これから目指す分を頂きました。

堺駅・与謝野晶子像より旅の始まり。チベット冒険者・河口慧海の生家をめぐる。

 自転車を無事手に入れ(お借りしたのです)案内所をあとにします。先ほどの巨大モニュメントとは逆、駅の西側ロータリーがこの旅のスタート地点です。スタート早速「ホテル・アゴーラ」の前に「与謝野晶子像」を発見! 

 堺生まれの歌人「与謝野晶子」、言わずと知れた「みだれ髪」ですね。この像は「与謝野晶子生誕120年」を記念して寄贈(1998年)されたのだそうです。台座には「ふるさとの 潮の遠音の わが胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲」と短歌が刻まれている。意訳すれば『初夏の流れる雲を見ていると、潮の遠鳴りを聞き育った故郷、堺をなつかしく思い出す』てなところでしょうか。初夏でもないし、流れる雲も無く、快晴の秋! 気持ちよく旅の始まり、自転車を走らせていきましょう。

ブロンズ像かな、玉野勢三さんの作品らしい・・・。写真ではもう少し面長でしっかりとした顎だったような気がするのだけれど?

 「与謝野晶子像」より「中世の環濠都市」の北側エリア近くにある隣駅「七道」を目指し、南海本線の高架下を北へと向かいます。約8分(1.7キロ)で「七道」に到着、この七道駅の周辺には、明治期の仏教・民族学者でもあり探検家「河口慧海」の生まれ育った場所でもあり、西洋から種子島を経由して伝来した鉄砲を作っていた鉄砲鍛冶屋が多くあった町なのです。

七道駅高架下ロータリー前に「鉄砲鍛冶射撃場跡」の石碑がありました、この辺りで試し撃ちをしてたんですね。

 「七道」駅前ロータリーでは、またブロンズ像に遭遇! それも旅人の先駆者「河口慧海」の像に~。この方はただの旅人というより、偉大なる探検家であり冒険家なのです。

 どんな旅をしたかを簡単に説明すれば、1866年(慶応二年)この地に生まれた慧海は、1897年に当時、厳重な鎖国状態だったチベットへ神戸港から旅立ました。その行程は、苦難苦難の連続でシンガポール経由で英領インドのカルカッタに入り、約一年間チベット語を修得しつつチベット密航ルートを模索していました。  

 神戸港を旅立ってから二年、1899年(明治三二年)カルカッタからネパールの首府カトマンズに到着。その後、北西に進んで行くのですが・・・、国境の警備が厳しくそれ以上進めなくなりました。そのため、ネパールの村でまた足踏み状態。だけど、この方がすごいのが、この時間を利用してチベット仏教を学んだり、密航ルートに山岳地帯があるため登山の稽古にも取り組んだのです。

 その情熱の結果、翌年1899年7月ネパールとチベットの境にあるクン・ラ峠を越え、ついにチベット領内への密入国に成功したのです。説明が長くなりましたが(笑)、それぐらい凄い旅人の大大大先輩です!

駅の西側ロータリーに「ヤク」? 2匹を引き連れ、峠を越える「河口慧海」像が居られます! 臨場感が凄くあるブロンズ像です。

 そんな大大大先輩の「河口慧海」さんの生家跡が、この近くにあるので行ってみることにしました。ロータリーの逆側、駅の東側に出て商店街を過ぎ、環濠北側エリア内の住宅地に入ると堺市の観光案内表示があります。表示に従い住宅地を進むと「えっ・・・」、なんと家と家の間(正確に言えば家と家の前)に約1mx50cmのスペースに石碑が建っていました(苦笑)。すぐに分かったからよかったけど、これって俗に言う「残念スポット」でした(ごめんなさい!)。

 「残念スポット」の生家跡碑から二筋東には、「河口慧海」さんが子供の頃に勉強した寺小屋「清学院」がありました。なかなか風情のある町屋で「国の登録有形⽂化財」にもなっていて、内部は100円で見学できますよ。

親切で分かりやすい堺市の観光案内標識。矢印に導かれたどり着けば、究極の残念スポット「河口慧海生家跡」
江戸時代、修験道の道場だった寺小屋「清学院」。この机を使って河口慧海さんも学んだのでしょうね。
「鉄炮鍛冶屋敷」を目指していると古い家屋が目に留まる、堺名産の「線香屋」さんなのだろうか。この辺りには味のある木造の家が残っている。

戦国時代、戦い方を変えた「鉄砲の町」、環濠北側エリアを散策

 寺小屋「清学院」を出て東側真後ろの筋には、「鉄炮鍛冶屋敷・井上関右衛門家住宅」が江戸時代の姿で保存されています。その時代の姿で残っているのは全国でここだけのようです。

 鉄砲の量産化を成功させた堺、その影には戦国武将「織田信長」がいたからだとイメージしますよね、でも違うみたいです。ここ「鉄炮鍛冶屋敷」が繁栄したのは、家康の時代のようです。でも展示物は貴重なものばかり、入館料は500円と規模の割に少し高いですが(すみません!)、火縄銃などは戦国マニア必見の歴史館です。

「鉄炮鍛冶屋敷・井上関右衛門家住宅」。井上家は伊予大洲の出身で、徳川が豊臣と戦った「大阪の陣」の後に移住してきて成功した人らしい。

 「鉄炮鍛冶屋敷」には入館せず、そこから自転車で約1分、江戸時代の参勤交代の道「紀州街道」出てきました。これからしばらく、環濠都市のど真ん中、南北に伸び路面電車が走る大通り「大道筋(紀州街道)」を進んで、次のエリアへと向かっていきます。

 「大道筋(紀州街道)」に向かう途中、何やら雰囲気の良い建物と「榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門屋敷跡」と書かれた石碑を発見。説明書きをよめば、この「芝辻理右衛門」さんは「大阪冬の陣(1614年)」の前、「徳川家康」に1000挺の鉄砲を急いで作れと命ぜられて、何とか間に合わし褒美をいただいた人みたいです。その邸宅がここだったようですね。この人が頑張ったおかげで豊臣家が滅亡したのでしょうかね。

「榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門屋敷跡」の碑がある辺りに趣のある「お寿司屋」や「包丁屋」が並んでいます。
解説板の後ろには「与謝野晶子」の歌碑。
「住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路」と何やら鉄を打つ音のようにリズミカルな短歌だ。

 邸跡から200mほど進めば「紀州街道」が幅広の路「大道筋」になります、路面電車「阪堺電気軌道」の「綾之町」電停がある大通りです。ここ「綾之町」の交差点は、撮り鉄さんにとって堪らないポイントだと思います(笑)。路線がカーブしていて、信号待ちをしていると自分に向かってくるような気分を味わえます、私は撮り鉄ではないですが。

 しばらく車両待ちをしていたら、恐ろしく珍妙な販売機を発見~! なんと「昆虫食自販機」・・・。何虫を売っているのか怖ごは近づき確認したら、カブトムシの甲虫系、タガメにサソリ、コオロギ、ワーム(ミミズ?)、昆虫ミックス!?。一番高いタランチュラ2900円・・・(絶句)、こんなもの誰が買うのだろう? よく見ると、カブトムシ、コオロギ、ワーム以外は全て売り切れ。さすがは「モノの始まり、なんでも堺」とよく言ったものだ、変なことで感心してしまいました(苦笑)。

 衝撃的な販売機を最後に「環濠北側エリア」から「東側エリア」に向かうことにいたします。

 
 

「紀州街道」と「大道筋」が合流する阪堺電気軌道「綾之町」電停前の交差点から。
その交差点横に佇む恐ろしき販売機。海外ならともかく日本では食べたくないなぁ。

 
 

<環濠見取り図>旅の便宜上、環濠エリアを4エリアに分けています。

タイトルとURLをコピーしました