第二五話 京都府から福岡県まで
『平氏滅亡の旅へ』前編  

ソノひびヨリ

2019年~2020年

関門海峡
平氏の最後の戦場となった関門海峡。
平氏滅亡の旅の始まりは、京都にある清盛公の首塚から
六波羅蜜寺 清盛を祀る「首塚」
京都府 六波羅蜜寺 清盛を祀る「首塚」

 還暦写真家の「天皇陵踏破の旅」を編集していると、紙面(画面)上で紹介しきれない訪問地が多くある。「81代安徳天皇」前後は、特に面白く色んな所を巡っていた。それはある意味、「天皇陵踏破の旅」から逸脱しているが(笑)、まるで巨匠・司馬遼太郎の「余談だが・・・」のようで興味を引かれた。それは、「安徳天皇」の足跡を追いかけていると、当然のことながら「平氏」の足跡にもなる。編集会議で削られた訪問地を繋ぎあわせていけば、一つの旅が出来上がることに気づいた。それが今回紹介する旅・『平氏滅亡の旅へ』。従来の旅紀行とは少し違うのですが、楽しんで頂ければ幸いです。

 旅のスタートは京都市東山区にある西国三十三ヵ所第17番札所の「六波羅蜜寺」から。ここには「平清盛公坐像(重文)」や清盛を祀る「首塚」など、清盛の死後から平氏滅亡への始まりを感じるからだ。

 お詣りを済ませ、京都から、平氏の「都落ち」で目指した神戸に向った。神戸市内には「福原宮跡」があり、多く平氏の名残がしるされていた。神戸市兵庫区切戸町には、鎌倉幕府執権第九代執権「北条貞時」の建立と伝わる、高さ8,5mの「清盛塚石造十三重塔」がそびえている。その十三重石塔の右横には、清盛像が佇んでいる。

清盛塚石造十三重塔
清盛塚石造十三重塔
清盛塚石造十三重塔
アクセスはJR兵庫駅から徒歩10分、地下鉄海岸線・中央市場駅からは徒歩5分。

 そして「清盛塚石造十三重塔」から、直ぐ近く、清盛の大修築が有名な「大輪田泊」へ向かった。

おそらくここから、鎮西(九州)に平氏の死地への旅が始まった。夕日を見ていると繁栄を極めた平氏が万感の思いで敗走する姿が映し出される・・・。

大輪田泊
「大輪田泊」、昔の名残も無い港になっている。

一挙に西へ、太宰府天満宮より京を睨む。

 1183年(寿永2年)7月より始まった敗走、九州太宰府で平氏に関わりのある武士たちの力を借りようとしたのだが、源氏側に寝返る武士が多くいたため九州からも落ちることになる。瀬戸内を漂流するように京へと向かっていった。

 源氏に寝返った武士たちは、損得勘定でそうしたのか? なぜ、恩義を感じ平家再興を目指さなかったのだろうか。ここ太宰府天満宮で考えてしまった。

太宰府天満宮
太宰府天満宮
太宰府天満宮で平氏の武士たちは、京都奪還のための談合をしたのか?
もし、ここでその談合をしていればドラマティックだ(笑)。
京に帰る事を望んだ「道真公」を祀る宮で。

 行き場を失った平氏軍は海路を辿り神戸へと向かうしかなかった。私もそれに習い、太宰府から北九州市門司まで車を走らせ、フェリーに乗船することにした。このフェリーに乗れば、深夜の通過だが福原宮奪還の上潮になる、木曽(源)義仲軍を破った「水島沖の戦跡」近くを航行するから。ただ、海上を航行する船の上、旨く撮影できるか不安(苦笑)。

 朝、大阪南港に着き一旦、家に帰る事にした。この後の敗走ルートは後日の旅にした。

名門大洋フェリー
やはり上手く撮れない・・・、奥の明るく光っている所が水島の工業地帯だ。
名門大洋フェリーより見た風景。
福原奪還、勝って兜の緒を締めよ。一瞬先は闇か。 

 別日、自宅より神戸「福原宮跡」の荒田八幡神社を目指す。ここには「安徳天皇行在所址」と記された石碑が建っている。また、この兵庫区平野には平氏の痕跡が多く残っている。「平野」と地名を付けたのも平氏と関係しているのだろうか。「雪の御所跡」や「平野商店街」などを巡り、先に向かう事にした。

 「福原宮跡」から約10キロ、車で約20分、須磨浦公園近くにある「安徳宮」。ここは一時期、安徳天皇が内裏を置いたと言われ、「安徳帝内裏跡伝承地」と呼ばれている。赤い3つの鳥居の参道、その奥に安徳天皇を祀る小さな社があり、子供を守る神さまとして地域住民に崇められている。幼くしてその生涯を終えた、安徳天皇だからこそだろう。

荒田八幡神社
平野の町を見おろすように建つ荒田八幡神社。ここで平家一門は永遠の繁栄を夢見たのだろう。
荒田八幡神社
須磨浦に面した高台に立つ、小さな社、幼き帝を感じる。

 「安徳帝内裏跡伝承地」より、徒歩7分ほどで「一ノ谷 戦の濱碑」に行けるようだ、車を置いて義経が下っただろう坂を歩いてみる事にした。実際に歩いてみると、これ中々の急勾配だ! 還暦を迎えた身にとっては注意し坂を下る、風景に気を取られないように(笑)。

 歩きながらふと思った「この坂を騎馬で下れたのだろうか?」。当時はもちろん道の整備もされていない、「よくある勝者の戯言かもしれないな」と思い須磨の灘に見入っていた。山陽電鉄の路線を越え、西国街道に出れば「一ノ谷 戦の濱碑」がある。山手より攻め降りてきた源氏軍(奇襲)に、防戦を強いられた平氏軍の姿が浮かぶ、さぞ激しい戦いだったのだろう・・・。

 余談だが、織田信長が好んで演じた『敦盛』は、この戦の中、元服前の16歳で命を落とした。だが、ここで命を落としたことにより、後世に語り継がれているのだ。

 さぁ、また海を渡ろう。敗退の道を、死への道行を。

後編につづく
 
 

安徳帝内裏跡伝承地
この下り坂はキツい!! ヒザを痛めないように気をつけて歩いた(苦笑)。
安徳帝内裏跡伝承地
山陽鉄道の路線が見える、気持ちのいい風景が広がる。ヒザはガクガクだが。
一ノ谷 戦の濱碑
須磨浦公園内に建つ「一ノ谷 戦の濱碑」
明石大橋
落日に導かれ、明石大橋を渡る。
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