還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
追尊天皇陵を巡る旅の始まり。
追尊天皇とは、生前に天皇として即位しなかった親王などに、死後贈られる天皇の称号。また、現代では「歴代天皇」に数えられていないが、歴史的に天皇として扱われた皇族をいう。
尊 号 岡 宮(おかのみや)天 皇
御 名 草壁皇子
生没年 西暦662年(天武天皇元年)~689年(持統天皇3年)
時 代 飛鳥時代
続 柄 天武天皇(父)、持統天皇(母)
陵 名 真弓岡陵
陵 形 円墳
所在地 真弓岡陵 奈良県高市郡高取町佐田
最寄駅 近鉄吉野線「壺阪山」下車、約1.4km、徒歩約20分。
「草壁皇子」は西暦662年、「大海人皇子(四〇代・天武天皇)」の第二皇子として誕生。671年に「三八代・天智天皇」が崩御すると、後継を辞退した「大海人皇子」と共に吉野へ下った。その後、「壬申の乱」で勝利した「大海人皇子」は、飛鳥浄御原宮で即位し四〇代・天武天皇となる。
その後、継者として「天武天皇」の皇后「鸕野讚良皇女(四一代・持統天皇)」の実子「草壁皇子」が、681年(天武天皇10年)に立太子した。686年、父「天武天皇」が病状につくと皇后(母)と共に大権を委任された。その年に父「天武天皇」が崩御するも、事実上皇位を継承していた「草壁皇子」だが、直ぐには即位をしなかった。これには「草壁皇子」が若かったとも言われているが、天武天皇崩御の直後に「草壁皇子」に次ぐ皇位継承権者とみなされていた「大津皇子」が謀反の罪で処刑されており、宮廷内の反感が「草壁皇子」の即位の障害となったものと思われる。
686年(持統天皇3年)に「草壁皇子」は27歳の若さでこの世を去った。そして時代が下って758年(天平宝字2年)に「四七代・淳仁天皇」から「岡宮天皇(岡宮御宇天皇)」の称号が贈られた。その御陵は、奈良県高市郡高取町の眞弓丘陵と言われている。
駅から田畑が広がる村落を歩いていると、丘陵が目に入る。鳥居らしきものがある、多分「御陵」だろう。
民家脇の坂道を登るとすぐに二手に分かれた道がある、右は「素盞鳴命神社」、左の階段を上れば御陵。
階段を上がってびっくりだ! 正面からの拝所じゃなく、側面からしかアングルがない・・・。
仕方がない! 不敬だが御陵前の畑の畔に降りて、正面からの撮影。すみません。
その場から振り返ると、気持ちのいい風景が広がっていた。思わず一枚。
もう一つの「草壁皇子」の陵墓、「束明神古墳」へ
元きた坂を下り、集落のメイン通りまで戻り北へ進む。約5分ほどで目印の「圓浄寺」に到着。この道の奥に「真陵」ではないかと、学会で言われている「束明神古墳」がある。
「圓浄寺」の境内にある墓地を眺め、藪へと繋がる道を行く。ほぼ、人と出くわさなく静寂だ、猪が怖い・・・。「春日神社」の鳥居が見えた。
一の鳥居を抜け、石段を進むと「春日神社」門前に、「土饅頭」の前に説明の立て札がある。これが「束明神古墳」か・・・、あまりにひっそりとあるので悲しくなる。
この陵墓は約60mの範囲で造成されていて、中央部の墳丘は「天武陵」に次ぐ規模を誇る。現状の墳丘は直径10m程度だが、実際は「八角形墳」で対角線の長さが30mもあったと言われている。
また、「橿原考古学研究所付属博物館」にはここに埋まる緻密な構造の「横ロ式石槨」のレプリカが展示されている。そのことから、埋葬者が「草壁皇子」ではないかと言われ、考古学界では「束明神古墳」が「岡宮天皇陵」との説が有力とされている。
まぁ、あくまでも学者が言っているだけです。宮内庁さん!