第六五回 七九代 六条天皇陵・八〇代 高倉天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
平安時代<末期> 七八代~八一代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

清閑寺陵 後清閑寺陵(六条・高倉天皇陵)

清閑寺陵 後清閑寺陵

七九代/六条(ろくじょう)天皇陵
諱/順仁 のぶひと 
在位年/西暦一一六五~一一六八
陵形/円丘

八〇代/高 倉(たかくら)天皇陵
諱/憲仁 のりひと
在位年/暦一一六八~一一八〇
陵形/方丘 
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮

所在地 清閑寺陵 ・後清閑寺陵 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
最寄駅 京阪本線「清水五条」下車、徒歩約2km・約30分

 後白河法皇(上皇)の命により、78代・二条天皇は譲位し、僅か1歳の息子・六条天皇が歴代最年少での天皇となった。即位の翌日に父の先帝二条天皇が無くなり、二条派の後ろ盾をなくし、祖父・後白河法皇(上皇)の院政支配に翻弄されていく。

 一方、平家一門から天皇を出したい平清盛、院政を強固なものにしたい後白河法皇(上皇)の利害が一致し、甥から叔父へという不自然な皇位継承を実現させる。六条天皇は、在位2年8か月で譲位して歴代最年少の上皇となり、その後、わずか13才で病に倒れ崩御した。

 79代・六条天皇の譲位により8歳で即位した80代・高倉天皇(後白河法皇の皇子)。11歳で、6歳年上の平清盛の娘・建礼門院徳子を中宮(皇后)に迎えた。権力を手にした平清盛、院政政治を行ないたい後白河法皇の対立はいわば必然であった。父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河法皇が事実上の幽閉とされる。両者の対立の間に翻弄され、翌治承4年(1180年)、平清盛の孫にあたる安徳天皇に譲位し太上天皇となり、院政を開始するが病に倒れ崩御する。

 その後の武家政権の到来により、天皇の権威を失い出し天皇陵は荒廃していく。この両御陵も、江戸時代の考証、または明治初期の考証に基づくもので定かではないと言われている。

 後清閑寺陵(高倉天皇陵)は清閑寺旧境内の山腹に、山上付近に清閑寺陵(六条天皇陵)が治定されている。
 
  

清閑寺陵 後清閑寺陵
ただひたすら国道一号線沿い(五条バイパス)を歩けばいい。
目印は公益社・中支店、この横の階段を昇れば少し距離を短縮できる(わずかだけれど・苦笑)。
清閑寺陵 後清閑寺陵
拝所の正面にあるのが後清閑寺陵(高倉天皇陵)。
清閑寺陵 後清閑寺陵
清閑寺陵(六条天皇陵)を確認するため、横の「清閑寺」に行くが拝所に向かう階段しか見えなかった。
残念だが、ここから遥拝することにした。

清閑寺 小督局供養塔

小督局供養塔
御陵横の階段を昇れば、高倉天皇に寵愛を受けた小督局の供養塔がある清閑寺。
小督局供養塔
清盛の逆鱗に触れ宮中を追放され、この寺で尼になり21歳の若さで亡くなった小督局の供養塔。
小督局供養塔
境内の要(かなめ)石から眺めると、視界が扇形に広がる絶景だ! だが、やはり登りはつかれる・・・。

 
 
寂光院 高倉天皇皇后 徳子 大原西陵

高倉天皇皇后 徳子 大原西陵
小督局の供養塔に行ったかぎりは、本妻(皇后)の御陵にも行かなければと(笑)、大原までやってきた。
高倉天皇皇后徳子の大原西陵がある寂光院門前。
高倉天皇皇后 徳子 大原西陵
高倉天皇皇后 徳子 大原西陵
御陵参道は寂光院の門の手前にあった。 出た! また、キツい石階段が頂上付近まで続いている・・・。
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