九九代 後亀山天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
南北朝時代 九六〜一〇一代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

嵯峨小倉陵(後亀山天皇陵)

後亀山天皇陵

九九代/後亀山(ごかめやま)天皇陵
諱/熙成 ひろなり 
在位年/西暦一三八三~一三九二年
陵形/五輪塔 
皇居(行宮)/吉野行宮 栄山寺行宮

所在地 嵯峨小倉陵 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町
最寄駅 阪急嵐山線「嵐山」下車 、約2700m、徒歩約35分。

 「99代・後亀山天皇」は、「97代・後村上天皇」の第二皇子(出生・生い立ちは明らかでい)。1383年に兄の「98代・長慶天皇」の譲位を受けて、栄山寺行宮(奈良県五條市)にて践祚したと言われている。その背景には、室町幕府への姿勢めぐって強硬派の「98代・長慶天皇」と和平派の「99代・後亀山天皇」との間で内部対立があり、和平派の「楠木正儀」らにより即位が実現したと考えられている。力を失いつつある南朝にとって、時勢的に和平は必至の情況となっていた。

 1392年に安定した政が行われていた室町幕府より、有力守護「大内義弘」に南北統一のための下交渉が始まり、両朝講和のための条件提示がなされた。その条件とは「譲位の儀をもって神器を北朝の後小松天皇へ授けること」、「皇統は両統迭立たるべし」、「国衙領(こくがりょう)は大覚寺統の領地とすること」、「長講堂領は持明院統の領地とすること」の4条件。同年、「99代・後亀山天皇」はこれを受諾し、南北朝時代に終焉が訪れようとした。

 条件に従い「大覚寺」を仙洞御所とした「99代・後亀山天皇」は「大覚寺殿」と称されて、足利幕府の冷遇に耐え1424年に雷鳴のとどろく夜「大覚寺」で崩御したと伝えられている。

 その御陵は奉葬当時の史料はないが、幕末修陵の際に正式にここを御陵と定められた。宮内庁上の形式は石造五輪塔。
 
 

後亀山天皇陵
後亀山天皇陵
阪急嵐山線「嵐山」から少し歩くが散策には丁度いい、山道ではないので(笑)。「知足庵」横に参道がある。100mほど歩けば拝所だ。
後亀山天皇陵
後亀山天皇陵
左右斜めからと、御陵では珍しく真横のカットを撮影。いつもながら天気が悪い・・・。

 
大覚寺

大覚寺
後亀山天皇陵より 、終焉の地「大覚寺」を目指す、約1800m、徒歩約22分。
大覚寺
内部にはあまり興味がないが、菊の御紋は気になる(苦笑)。
大覚寺
大覚寺で亡くなる際に「無念を表すかのように、雷鳴がとどろいていた」と言われているが、
晴れてきて美しい「大沢池」。
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