ソノひびヨリ
2019年 7月5日~7日

またまた、流し流され、流れ着いた、佐渡島。
「承久の乱」で鎌倉幕府執権「北条義時」に敗北した「八二代・後鳥羽天皇、八四代・順徳天皇」、父・後鳥羽天皇は隠岐島へ、その子である順徳天皇は佐渡島に配流され二二年後崩御された。2019年初夏(少し古い話だが・笑)、吾輩は天皇陵踏破を目的に順徳天皇の足跡を訪ねるため、新潟本土より佐渡島に渡ることにした。
北陸の仕事を終え佐渡汽船ターミナル「新潟港」から高速船「ジェットフォイル」乗船したのが15時前、本土より約1時間強の船旅を終え両津港・佐渡汽船ターミナルに到着した。(今回は前回のようなヘマはしなかった、気になる御人は34話隠岐の旅を読んでいただきたい・笑)。上陸に伴い予約していた、レンタカーをピックアップしこの日の行程は終了した。


下・約1時間の乗船、目的地の佐渡島はもうすぐだ。少し船は揺れたが快適な船旅だ。
翌朝、「順徳天皇」が上陸されたと伝わる港に向かった。宿泊した両津港から南西に約20km(佐渡島の真ん中の細くなっている部分の北東に両津港、南西に恋ケ浦がある)、時間にして30分ほどのドライブで「恋ケ浦」にほどなく着いた。車を真野漁港多目的広場駐車場に止め、入口付近にあった「順徳上皇石碑群」に向う。
ここには四つの碑が建っていて、そのひとつは父の「後鳥羽上皇」を思う和歌で、もうひとつが地元の人々との交流を伝える「順徳上皇の稗粥物語碑」だ。そこには『これほどに身の温まる 草の実を ひえの粥とは誰か云ふらむ』と書かれている。「恋ケ浦」に1221年4月(承久4年2月)到着した「順徳上皇」を、あたたかく迎える島民たちの情景が目に浮かぶ和歌だ。吾輩にもこの先、誰かにあたたかく迎え入れて欲しいものだ(笑)。そんな期待を胸に、この旅をスタートさせた。


「順徳上皇」が流されてきた真野湾の蒼き海を眺め想いにふけた後、車で3分ほどの行在所(仮の御殿)であった、「順徳上皇」をお祀りする「真野宮」へ向かう。県道304号真野新町線沿いに走れば、すぐ鳥居が目に入るので迷わずすむ。 鳥居の横には駐車場があり、小川のような真野川を渡れば「真野宮」の神域に入る。
参道を進めばすぐ右手には「佐渡歴史伝説館」があり、人形が狂言回しとなり佐渡の歴史を語ってくれる施設らしい。入館料が大人・900円~、悩んだ末にスルーする事にした、900円は少し微妙な値段帯に思え・・・(言っておきますが吾輩は決してシブチンではございません)。
歴史伝説館より少し進めば、奥に小高く積まれた石垣が見えた。「行在所跡」ようだ、近くまで寄ると柵がありまるで墓陵のようにも見える。この「行在所跡」というものは、過去数カ所を巡ったが被写体として余り面白くない(失礼・笑)、何気にシャッターを押し、本殿を参りこの場所を後にする。次の目的地、火葬塚へ向う。

下・拝殿と本殿。この奥に「行在所跡」がある。

「順徳天皇御火葬塚」?「真野御陵」?どっちなんだ、そして「赤玉石」?
目的地を「順徳天皇御火葬塚」とナビに入力、すると、出てきたルートがえらく迂回・・・。最短距離を見ると1,5km程なのに、ナビでは2,3km約6分の表示になっている。旅先でよくある「レンタナビあるある」だ、こんな時はナビの音声をoffにして無視に限る(諸兄もこんな経験があるでしょう・笑)。
ナビを無視して時短・最短で「順徳天皇御火葬塚」近くの「真野観光センター」駐車場に到着。「赤玉石」と何やら怪しい幟が立つ「土産物屋」をよぎり「順徳天皇御火葬塚」への参拝道を進むと、突然現れたのが「大きな赤い石」! その鮮やかな赤に驚き「あっ、これが赤玉石なんだ」と納得するも、別に興味がないので先に進む(すまぬ、駐車だけになり、土産物屋さん)。


下・この参道は自然遊歩道ようだ。
自然遊歩道の表示板の近くに、玉垣で囲まれた森がある。聖域のようだ、玉垣沿いの参道は、玉砂利と変わり森の中へと続いている。
ここ「順徳天皇御火葬塚」のことを少し話しておこう。「順徳天皇御火葬塚」のことを地元では通称「真野御陵」とも言われていて、誘導表示にも両名称が混在しているから惑わされないように注意されたし(笑)。そして、この火葬塚には御遺骨は無い! 1242年、在島22年の末に四六歳で崩御、翌日火葬された御遺骨は、翌年に京都の父・後鳥羽上皇墓所のそばに安置されている。
そして火葬跡に松と桜を植え目印としたのが、この「順徳天皇御火葬塚(真野御陵)」。まあ言えば、記念樹を植樹した場所なのだ、おっと不敬なことを言ってしまった(苦笑)。宮内庁が「火葬塚は御陵と同格扱い」とお達しがある、ならば拝所にて深く頭を垂れる事にした。


「第一皇女」?「第四皇女」? またまた、ややこしい
最大の目的地「順徳天皇御火葬塚(真野御陵)」の参拝を終え、この旅の終了かと思いきや(笑)、はるばる京都からの来島、もう少し「順徳天皇(上皇)」の足跡をめぐる旅を続ける。さて、どこを目指すか考えた末に「順徳天皇(上皇)」のご家族に視点を当て巡ることにした。
最初は、この島で生まれ京の都を知らず亡くなられた皇子の墓に向かう。火葬塚から美しい田園を走ること約10分「順徳天皇皇子・千歳宮墓」に到着、美しい田園を車窓から見ているとめずらしく少し歩いてみたくなった。駐車場がないので「千歳宮墓」より少し離れ、邪魔にならない場所に止め歩いて墓を目指した。
県道沿いを歩いていると「順徳上皇第三皇子の墓」の案内表示を見つけ、そちらに向かい歩くと農業用の用水路に小さな小さな石橋(意外と立派な)が架かっている。これが参道のようだ、夏草をかき分け入っていけば「千歳宮墓」があった。
皇子こと「千歳宮」の記録は、残念なことにほぼ残ってないらしい・・・1237年(嘉禎三年)佐渡島にて誕生、1254年(建長六年)17歳で若くお亡くなりになられている。聖母さえも定かでなく、配流の際に京よりこられた方か? 現地の女人なのか? 諸説あるが、現在も謎のままだそうだ。


下・近くにより参拝を・・・、愕然とした!! 門扉の「菊の御門」の片側が落ちてないのである!
宮内庁の管轄ならばすぐにでも修復するべきじゃないのか。現在はどうなっているかは分からないが・・・。
「謎は謎のままでいい」歴史ロマンを感じつつ、次の「順徳上皇第一皇女・慶子女王」ゆかりの寺「慶宮寺」へ向かった。
ここで補足説明を、この「第一皇女」というのは、少し語弊があることを。京にいた頃は帝として君臨していた「順徳上皇(天皇)」、当然、皇子女は大勢いらっしゃる、もちろん女房殿もだ(笑)。この「慶子女王」は京時代から数えれば、第四皇女にあたり「順徳天皇」が佐渡で儲けた最初の子であったので「第一皇女」されているようだ。(ややこし~・苦笑)
その「慶子女王」の在所としていたのが「慶宮寺」、ここで六二歳の享年までお暮らしになったと伝えられている。佐渡でご誕生なされた皇子女では、一番長生きをされた方です。そのため地元では、皇女にまつわる口伝のいくつかが残っているらしい。その口伝とやらを誰かに聞かせてもらいたいと、地元の方を探してみるも誰もいない・・・。少し休憩がてらに待ってみるも、誰も現れはしなかった。やはり、あたたかくは迎えていただけそうもない(日頃の行か・・・)。

下・「慶宮寺・八祖堂(祖師堂)」は小高い丘の上に建っている。

