旅を始める前に リレーエッセイ第十一回
はじめに
この話は「旅」と言えるのか?と、自問自答を繰り返した結果、手前味噌になるが(笑)自分へのお祝い代わりにここで記することにしました。
題の「50年の「旅」は、感謝の「旅」だった」というのは、私自身が芸術表現と出会い「その道」を愚直なくらいに旅を続けた時間です(笑)。今現在も、広告制作の端くれで現役として広告物を作り、その上「ソノひびヨリ」を刊行できている悦びと感謝の気持ちで一杯です。それもこれも、この50年私を育てて頂いた諸先輩方、ならびに同輩、後輩たちのお陰だと思っています。そんな節目に感謝の気持ちを込めて、振り返ってみることにしました。
そんな私の「旅」の独り言に暫しお付き合い下さい。
50年の「旅」の始まりは教会から
私が最初に芸術という表現世界と出会った、切っ掛けを頂いたのが1972年(昭和47年・沖縄県本土復帰の年)小学校2年生の時でした。その切っ掛けは、小学校の入学前に大変お世話になった神父さまより頂いた。この神父さまは地域の恵まれない子供を集め慈善活動に尽力されていて、多種多様なイベント(昔で言う「お楽しみ会」のようなもの)を開催しては地域の子供たちを招き楽しませてくれていた。当時、幼少だった私もイベントの飾り付けなど、作くることが「嬉しく、楽しく」過ごしていた。
そんな私の姿を神父さまは見ていてくれたのか? 小学校入学時のプレゼントに「16色入り・ギターペイント」の クレヨンをいただいた。当時、「16色」も入っているクレヨンは非常に珍しかった、ほとんどの人が持っているのが「12色」、それが嬉しくて嬉しくてどこにでも持ち歩いていた。小学校入学後も「16色入り・ギターペイント」を片手に、教会のイベントには必ず参加していた(笑)。
そんな日々を過ごすなか、私の「50年の旅」が始まる出会いを神父さまが与えてくれた。小学校2年生になったばかりの私に、とある土曜日の昼過ぎ教会で『このお兄さんとお姉さんに着いていきなさい。そこにあなたの先生が待っています、そこで自分の名前を言いなさい。』と神父さまに言われ「?」のまま着いていった。到着した先は、なんと幼稚園だった〜! 驚いている間も無く、お兄さんとお姉さんに誘われて木造平屋の園舎に入った。そこに居たのは、長髪でボロボロのカーキー色のパンツを履いたおじさんが床一面に新聞紙を引いていた。もう、その姿は当時の街場にいるルンペンと見間違えるほどの身なりだったのです(すみません)。その人こそが私の「50年の旅」を運命づけた最初の「師」となった「Y先生」でした。
そこは「Y先生」が園舎を借り、毎週・土曜午後から開いている「絵画教室」だ、この日より私は通うようになった。確か月謝は500円だった、当時「ソロバン塾」が1000円ほどだだったので格安といえば格安だ、でもよく払ってくれたものだと感謝している。今考えれば、神父さまが裏から手を回していたのかもしれない。でも、小学校2年生の土曜13時から15時までの拘束はキツかった・・・(苦笑)、なんせ遊びたい盛りだ。友達は野球道具を持って広場に行く、私は幼稚園の「絵画教室」へ向かう、『おわったら、広場に行くから〜』などと叫びながら、小学校卒業するまでの5年間を毎週末を過ごした。
15歳の地図を彩る、超個性派が集まった世界へ
「絵画教室」は小学校で卒業なので、中学生なった私は自分で考え描いていくしかなかった、たまに芸大卒の美術教師に話を聞いたりして中学生活を送っていた。余談だが、この「U先生」もインパクトが強かった〜、髪型はロングのフラッパーでエスニック調の服をまとい美術準備室で咥えタバコ。今では許されない行為も、昭和50年初頭には当たり前で、カッコ良く見えたものだ。
美術室にそんな先生がいてくれたお陰で、美術部員でもないのに、クラブ活動中によく美術室でサボタージュして過ごしていた(笑)。そんななか中3のある日、美術室で「ある物」を見つけた、それは「美術に特化」した私立高校の学校案内を。運命のいたずらか、この後、私は周囲の反対を気にも止めず、ひたすら進学のために「デッサン」というものを「U先生」に教えてもらった。その甲斐もあり、翌年昭和56年に晴れて念願の高校の「デザイン学科生」となった。
入学してビックリ! この学科には強烈な個性を持つ人たちが集まっていた。私立高校なので他学区(他県もいた)から集まった生徒(同級生)、全90人(2クラス)、各中学生で「絵」に自身ありの猛者ばかりの個性集団だった・・・。授業(実習)が進んでいくと、始めて頭を打った「上には上がいる」と、同級生には15〜16歳と思えないデッサン力を持っている者もいた。音楽で言うなら「絶対音感」のような、一瞬で対象物のフォルムを目に焼き付け描いてしまう・・・、その力の差に圧倒されて続けた思い出がある(思い出せば、今でも悔しい・笑)。
当然、教師陣営も個性派ぞろい。『教師はアートで食べられるようになるまでの仕事』と平気な顔をして生徒に言うんだから(苦笑)、また、違う先生はなどは表現方法のテクニックを聞きにいっても『それは君が見つけ出すものだろう、僕は教えられないな』なぞとほざく! その時は「授業料を返せ!! 給料ドロボ〜」と思ったもの。だが、この言葉を私に発した2人の教師、「J先生」と「S先生」には大きな影響を受け3年間を過ごした。
去年、私がその1人「J先生」にお会いした時、お聞きしたの話です。それは数年前、「J先生」と「S先生」お2人が十年振りに再会した時の話を。そう、私に『教えられないな』と言った「S先生」が「J先生」にこう語った。『私たちは、決して「あの子」たちの邪魔をしなかった』と私はこの言葉に胸が熱くなり、深く感謝するばかりが。今だから、分かることなんだろうが・・・。
私なりに解釈すれば、「芸術を探求することは孤独で、自分自身で自分の表現を見つけ術となすこと。教えることはそれを『邪魔』すること」て、ことですよね「S先生」。
その場に居られたなら、こう答えるだろう「邪魔されていません」、それどころか、背中に大きな羽を着けることができました(笑)。この話を聞き、「S先生」にも会いたくなった、今の私を見て欲しく。
尚、お2人は、今現在(70歳を越えて)もアーティストとして活動されている、本当に凄いことだ。
<前編おわり、中編へ続く>