ソノひびヨリ 第四二話 大阪府堺市
古代、中世、幕末、近代のメルティングポット堺へ
その2 環濠東側エリア

ソノひびヨリ

2025年 11月3日

紀州街道に多く残る、古い建家の堺打刃物(包丁)屋

再度、紀州街道へ堺打刃物の街並みを楽しみ「旧・堺県庁跡」?へ

 奇妙な昆虫食販売機を見て口に苦いものが上がりつつも、「大道筋(紀州街道)」を進み一筋目を東に折れれば、すぐに国の重要文化財「山口家住宅」です。この木造建築は1615年(慶長二〇年)の「大坂の陣」後に建てられたもので、江戸時代初期の町家としては貴重な建造物だそうです。200円の入館料で、伝統的な堺の町家の暮らしを感じることができます。時間がある方は入館をお勧めします。お勧めしておいてなんなのですが、私はスルーして先に進みます(時間がないので・残念)環濠都市の東側エリアへ。

国の重要文化財「山口家住宅」と観光案内所でいただいたカードです。
入口から覗けば土間にへっついさんが見えたような・・・、薄暗くて確認できませんでした。次の訪問時には入館してみます。

 国の重要文化財「山口家住宅」を後に、再び「紀州街道(大道筋)」に戻り先に向かう。路面電車が通る「紀州街道(大道筋)」は環濠都市(堺旧市街)を南北に伸び片側3車線の大道で、東西に走る「宿院通り(フェニックス通り)」と共に環濠都市の幹線道路。先の対戦末期1945年(昭和二〇年)の5度による空襲で旧市街の半分以上が焦土と化したそうで、その後の戦後復興の都市開発でこの道ができたようです。

 「紀州街道(大道筋)」付近には、奇跡的に焼け残った建屋が現存して(小数だけど)散策していても飽きずに楽しいです。堺の名産・包丁屋などがその建屋を使い営業もしていますよ、また、堺市では「まちなみ修景補助制度」を用いて古い建屋を再生保存を推進して頑張っているようです。だから、メインの道から外れて民家街に迷い込んでも(笑)、意外に古い町屋や古刹を発見することができますね。これも堺観光の楽しみの一つかもしれません!

紀州街道(大道筋)沿いの「堺打刃物(包丁)屋」さん。ドラマ「天皇の料理番」のポスターが貼られている、懐かしい~。
左・「堺まちなみ修景建物」の表示が古い建屋に記されている。
右・普通の集合住宅の壁にショーウィンドウ? そこには包丁が並べられていた。
何気なく歩いていれば、江戸末期の山門が残っている「日蓮宗青陽山 月蔵寺」

堺市が「県」だったこと! 知っていましたか!?

 「紀州街道(大道筋)」をさらに南に進めば、堺の老舗お茶っ葉屋さんの「茶寮 つぼ市製茶本舗 堺本館」が見えてきます(お茶休憩にオススメです)。その角を東に折れると1分も自転車で走れば、ナマコ壁が目に入る、その横に「堺県庁跡」の「本願寺堺別院」がありますが・・・。なんと!只今、堺市指定有形文化財の山門の土塀が補修中で覆いがあり景観を楽しむことができない・・・(残念です)。 

 山門横の石碑も半分隠れている、その石碑に「堺県庁跡」と刻まれているのになぁ。だけど、みなさんこの「堺県」って知っていましたか? 私はうっすらと記憶の片隅にありましたが、詳しく知らずに訪れています(苦笑)。ちょっとググって調べると、1868年(明治元年)に旧天領地(徳川氏の領)に設置された県で、その後の1869年(明治二年)廃藩置県から1876年(明治九年)までに「河内、狭山、伯太、岸和田、吉見、丹南、奈良県」を併せ持った、近畿地方の大きな県だったみたいです~(びっくりです)。そして、県設置約4年後の1871年(明治四年)、堺市内で最大の木造建築である「本願寺堺別院」に県庁を移転させたのですね。

改修中の「本願寺堺別院」(2025年10月現在)それに堺観光案内所の観光カードです。
改修前の「本願寺堺別院」山門

 境内に入れば立派なブロンズの「蓮如」さんと「親鸞」さんの像が迎え入れてくれます。その奥には大きな本堂があり「自由に参拝ください」と書かれていた、さすがは開かれた教えの浄土真宗だと感心です。本堂横には幼稚園が併設されていて、元気な歌声が聞こえ華やかな気分を味わえました(笑)!

 ここにもあった!「与謝野晶子」の歌碑が。歌碑には「劫初より 作りいとなむ 殿堂に われも黄金の釘 ひとつ打つ」と、意味を解くなら、『仏教においてのこの世の始まりから創作・創造された文学(芸術)の殿堂に、私も黄金の釘を一つ打ちます』かな(笑)。「与謝野晶子」が生まれた時代、ここは堺県庁だったでしょうね。1881年(明治一四年)に堺県は廃県となり大阪府に合併されました。

山門をくぐれば、蓮如像と親鸞像が向かい合い立っていた。この旅はブロンズ像によく会います(笑)。
堺市指定有形文化財の「本堂」、本堂内にお一人いらっしゃいました、近所の方なのでしょうか。失礼になるので本堂内からの撮影は自粛しました。
「本堂」の「与謝野晶子」石碑

戦国時代の逸話、幕末の大事件と話題が多いお寺へ

 次に向かったのが、戦国時代、幕末と深い繋がりのある場所へ。自転車で2分もかからずに目的地に到着予定、いつも徒歩なので自転車の便利さをつくづく実感します。ただ、見落としだけは注意! この時も、目的地の少し前の古い石標を見落としかけました、「右 そてつ」と刻まれている石標を。堺で蘇鉄と言えば歴史好きの方ならすぐに分かりますね、「織田信長」で有名な「鳴きの蘇鉄」です、その蘇鉄が生育する「広普山 妙国寺」のことです。

 ご存知だと思いますが、一応簡単に説明をしておきましょう。ここの「蘇鉄」が信長の命により安土に移されたのです、ところが毎夜毎夜「堺に帰りたい、堺に帰りたい」と泣き続けたことで信長が激怒~。「蘇鉄」は切られそうになるのだけど、九死に一生を得て堺に無事帰えることができました、ある意味「お化け蘇鉄」がここに生育しているのです。その「蘇鉄」は、なんと!国指定の天然記念物で推定樹齢1100年、やはり「お化け蘇鉄」なのです。この「お化け蘇鉄」を見たい方は、拝観料・大人400円をお支払いください~。

 更に、戦国(安土桃山)時代の話として、明智光秀の「本能寺の変」の夜、ここ「妙國寺」で「徳川家康」が泊まっていたそうです。何かと戦国(安土桃山)時代にゆかりのあるお寺なのです。

「右 そてつ」の石標と、なんと簡素な(笑)。
日蓮宗の広普山・妙国寺、朱色が派手派手しい~。

 そして幕末、堺で国際問題の大事件が起きたのです! そうです「堺事件」ですね。時は1868年(慶応四年)、堺港に上陸してきたフランス帝国水兵が民・婦女子に狼藉をふるまっていた。その行為を阻止しようと、幕府の命を受け堺を警固していた土佐藩士が銃撃、その結果、フランス帝国水兵11名を殺害してしまったのです・・・。

 殺害に対し、フランス公使より藩士たちへの極刑(斬刑)の要求がありました。幕府はそれを受け入れ、フランス人士官立ち合いのもと、ここ「妙國寺」の本堂庭前にて土佐藩士20人の切腹が決まったのです。その模様を見届けていたフランス人士官たちは、あまりの壮絶さ悲惨さに11人目の切腹時点で中止を命じたのです。

 愛国の志士として殉職した土佐藩士11人の亡骸は、「妙國寺」前の道を挟んだ向かい「宝珠院」の境内に葬られ、墓碑は土佐藩主により建てられました。今現代の「宝珠院」は幼稚園を経営されていて、園内に「国の史跡」に指定された「土佐十一烈士墓」が弔われています。お墓に参りたい方々は、事前に連絡してお願いするしかないような気がします。私は門扉の隙間から撮影しました(失礼しました)。

妙国寺の山門近くの前に「明治戊辰殉職土州藩士墓」の石標。側面に「左 とさのさむらいはらきりのはか」と記されています!
上・妙國寺から見た宝珠学園幼稚園
下・遊具の後に土佐藩士の墓石二基が見えました。
10数年前に訪問時には、遊具がなかったので六基確認ができました。
冥福をお祈りいたします。

 環濠東側エリアより、西へ進み堺の偉人たちの生家跡を目指そうと思います。そろそろお昼が近いし堺の名物でも頂こうと、自転車を走らし環濠東側エリアを後にします! まだまだ続く「環濠都市・堺」の旅が。

                  (その3 環濠西側・南側エリアへ続く)

妙國寺の裏に土塀より高く伸びる「オバケ蘇鉄」を発見! 天然記念物の蘇鉄かは分からないですが(笑)。
<環濠見取り図>
旅の便宜上、環濠エリアを4エリアに分けています。
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