還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
近現代 一二二~一二四代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
一二四代/昭和(しょうわ)天皇陵
諱/裕 仁 ひろひと(迪宮・みちのみや)
在位年/西暦一九二六~一九八九年
陵形/上円下方
皇居/皇居(東京都)
所在地 武藏野陵 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地
最寄駅 JR・京王「高尾」下車、約2.5km、徒歩約40分。
東京都港区元赤坂二丁目1番1号に建つ「迎賓館赤坂離宮」は「赤坂迎賓館」とも呼ばれている。明治以降の建築としては唯一、国宝に指定されている地上2階・地下1階の建築物。
この建物は1909年(明治42年)に「東宮御所」として建設された。設計は鹿鳴館などを設計した「建築家・ジョサイア・コンドル」の弟子「宮廷建築家・片山東熊」が担当した。しかし、過剰な装備の「ネオ・バロック様式」の外観や、住居としての使い勝手が良くないことから、「皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)」がこの御所を使用することはほとんどなかった。「大正天皇」即位後には、「離宮」として扱われ、その名称も「赤坂離宮」と改められた。
1924年(大正13年)大正天皇の皇子「皇太子・裕仁親王(昭和天皇)」と「良子女王(香淳皇后)」との婚儀後の数年間、「赤坂離宮」は裕仁親王一家の住居「東宮御所」としてとして使用された。だが父帝と同じく、「昭和天皇」に即位後、「離宮」として使用されることも少なくなった。
太平洋戦争終戦時には、弟宮「高松宮宣仁親王」が「昭和天皇」に、焼けた宮城を出て「赤坂離宮」へ移り住むことをお勧めしたが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否されたと伝わる。
門までの長いアプローチ・・・、100m以上はある。
門はイギリスのバッキンガム宮殿に似ている。
更に100m以上歩けば迎賓館の「前庭」が見えてきた。
迎賓館の案内板。・・・広い~。
迎賓館「前庭」前のやはり少しケバい門を入れば「迎賓館赤坂離宮」だ。
ウィーンの「ホーフブルク宮殿」に似ている、さては「パクったな!」、いけない不敬の一言だった。
正面玄関の屋根飾りに鎧武者の意匠があると聞いていたが、鳳凰はわかるが鎧武者は何処に?
建物全体に、西洋の宮殿建築と日本風の意匠が混じった装飾になっているとも言われているが・・・これも認識できない。私がボンクラなのだろうか(苦笑)。
中庭に入ればここが「迎賓館赤坂離宮」の主庭になる、この階段が国宝の「主庭階段」らしい。
国宝の「主庭階段」から見える大噴水、これもフランスの「ヴェルサイユ宮殿」から・・・。
「迎賓館赤坂離宮」から近くに「迎賓館東門(旧赤坂仮皇居正門)」があった。これならあんなに歩かずに済む、来賓客は車で来るので関係ないか。