還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
北朝 初代~五代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
山国陵(光厳天皇陵)
北 朝 初代/光厳(こうごん)天皇陵
諱/量仁 かずひと
在位年/西暦一三三一~一三三三年
陵形/宝篋印塔
皇居/平安京
所在地 山国陵 京都府京都市右京区京北井戸町丸山 常照皇寺内
最寄駅 JR京都駅より車(レンタカー)で、約37km、所要時間約1時間10分。
「96代・後醍醐天皇」が鎌倉幕府の討幕に失敗、京都を出奔したことで19歳で践祚した北朝・初代天皇。在位の3年目、後醍醐方に寝返った「足利尊氏」、それにより鎌倉幕府と共に窮地に立たされた「北朝初代・光厳天皇」。その後、一度は「後醍醐天皇」により廃位されるが建武政権が崩壊すると、治天の君に返り咲いた。
その御陵は「102代・後花園天皇」と同域の「常照皇寺」内にある。また、大阪府河内長野市天野町の「金剛寺」には分骨所がある。
南海高野線「河内長野」より南海バスにて「光厳天皇分骨所」
大光明寺陵(光明・崇光天皇陵)
北 朝 二代/光 明(こうみょう)天皇陵
諱/豊仁 とよひと
在位年/西暦一三三六~一三四八年
陵形/円 丘
皇居/平安京
所在地 大光明寺陵 京都府京都市伏見区桃山町泰長老
最寄駅 JR奈良線「桃山」より、約400m徒歩約5分
「北朝2代・光明天皇」は「93代・後伏見天皇」の第九皇子、「延元の乱」の混乱の中、「北朝初代・光厳天皇(上皇)」の譲国詔によって践祚した。在位中は「光厳上皇」による院政が敷かれ、これといった功績は残されていない。「正平一統」が破綻と同じに「南朝」によって幽閉される。
この即位によって「北朝」が成立し「北朝最初の天皇」ということになるが、明治以降、兄の「光厳天皇」が「北朝初代天皇」として扱われているため、皇統譜で「光明天皇」は「北朝2代」とされている。
その御陵は京都市伏見区桃山町にある「大光明寺陵」と治定されている。
北朝 三代/崇 光(すこう)天皇陵
諱/益仁 ますひと
在位年/西暦一三四八~一三五一年
陵形/円丘
皇居/平安京
所在地 大光明寺陵 京都府京都市伏見区桃山町泰長老
最寄駅 JR奈良線「桃山」より、約400m徒歩約5分
「北朝3代・崇光天皇」は「北朝初代・光厳天皇」の第一皇子。叔父にあたる「北朝2代・光明天皇」の譲位を受けて践祚。在位中に起きた足利政権の内紛による戦乱が激化し、「南朝」と「足利尊氏」の和平策である「正平一統」が成立すると、「97代・後村上天皇」によって廃位されられた。
その御陵は「北朝2代・光明天皇」と同じく「大光明寺陵」と治定されている。
深草北陵(後光厳・後円融天皇陵)
北朝 四代/後 光 厳(ごこうごん)天皇陵
諱/彌仁 いやひと
在位年/西暦一三五二~一三七一年
陵形/方形堂
皇居/平安京
所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。
「北朝初代・光厳天皇」の第二皇子、もしくは第三皇子と言われている「北朝4代・後光厳天皇」。「正平一統」にて朝廷(南北両朝)が統一され、「北朝」が一時期消滅した後、「三種の神器」も「詔も」無くして15歳で践祚。
1374年、疱瘡を患い崩御され「泉涌寺」で葬儀が行われた。「泉涌寺」での葬儀(天皇の)は鎌倉時代「87代・四条天皇」以来であり、「後光厳天皇」以降、天皇の葬儀は基本的に「泉涌寺」で行われることとなった。
その御陵は「持明院統歴代」が葬られている「深草北陵(深草十二帝陵)」。また、泉涌寺、天龍寺、四天王寺、高野山、安楽光院などにも分骨所がある。
北朝 五代/後円融(ごえんゆう)天皇陵
諱/緒仁 おひと
在位年/西暦一三七一~一三八二年
陵形/方形堂
皇居/平安京
所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。
立太子から2日後に「北朝4代・後光厳天皇」の譲位を受けて即位した「北朝5代・後円融天皇」。衰退した朝廷再建の方針の違いなどで「足利将軍・足利義満」と「後円融天皇」が対立し、その結果「足利義満」は「後円融天皇」を退位したと言われている。
1392年、「足利義満」により「南朝」との和平が成立して「南北朝時代」が終結したが、その翌年に崩御した。崩御の翌日に「泉涌寺」において火葬、泉涌寺塔頭雲龍院には「分骨所」がある。御陵は「北朝4代・後光厳天皇」と同じく「深草北陵」。