第三四話 島根県隠岐島
『後鳥羽天皇、後醍醐天皇、島流の地に流れ着く』<後編>

ソノひびヨリ

2023年 11月20日~23日

早朝、「ホテル隠岐」より7分ほどの散歩で「後醍醐天皇」ゆかりの「黒木神社」へ
京を夢見、悶々と過ごした「後醍醐天皇」の足跡を散策

 最終日は「ホテル隠岐」のすぐ近く、「九六代・後醍醐天皇」の足跡を訪ねるのが目的だ。早朝、ホテルより歩いてすぐ、船着場・別府港の東側に鎮座する「黒木神社」に参拝する。ここは「後醍醐天皇」を御祭神した、「後醍醐天皇」ための神社であり、この周辺には天皇の足跡が点在して短時間で巡れる。「ホテル隠岐」は素晴らしい立地条件だ~(笑)。

入江に立つ鳥居をくぐれば、本殿へ向かう石段。そこには小さな本殿、拝所があった。

 ホテルより真っ直ぐに入江沿いを歩けば、白い鳥居が見えてくる。気持ちの良い朝の日差しが射し、鳥居が一層白く輝いている。鳥居の向こうには小高い丘、そこに鎮座している「黒木神社」、石段を少し上がれば本殿に到着だ。本殿は思ったより小さく質素な佇まい・・・。そりゃそうか、「後醍醐天皇」はこの場所(島)に1年しか居なかったのだからこんなものかと感じてしまう。

 島で暮らした1年間は、京への帰還のみを虎視眈々と待ち続けた日々だったんだろう。「権力欲の塊なのか(笑)」と思いながらも、一応、拝殿に向かい参拝を終えた。この本殿より、さらに奥へ向かえば1年を過ごした御所跡「黒木御所阯」がある。表示に従い小道を登っていく、石段を上にはそれほど大きくはない柵囲みの空間があった。柵内には植樹記念の杭が打たれている、そこには「昭和61年 皇太子殿下・皇太子妃殿下行啓記念」記されていた。言わずと知れた「平成上皇陛下」と「美智子上皇后陛下」の植樹記念碑だったのです。「南朝」の生みの親で、朝廷を混乱に陥れた張本人の「後醍醐天皇」配流の地にまで、行啓されているとは驚いた。さすがは「平成上皇・上皇后陛下」です、吾輩は頭を深く下げたのであった。

 もっと「後醍醐天皇」の島暮らしを知りたい貴兄には、「黒木神社」の敷地内には「伝承資料館・碧風館」があります、どうぞお立ち寄りください(入館料・大人 300円)。吾輩は寄らず先へと進みます(笑)。

本殿より小道を少し歩けば「黒木御所阯」、なんと!「平成上皇・上皇后陛下」が行啓されていた。腰を抜かすほど驚いた。

 きた道を戻り再び入江沿いの道路に出た、ここより歩いて2分ほどの「千福寺御座所跡」に向かう。この「千福寺御座所跡」も言わば天皇の住居跡の一つなのだ、いろんな場所に潜伏して(笑)島からの脱走を企てていたのだろうか・・・。余談だがこの「千福寺」は明治初年の廃仏の折に廃寺となっている。

 次に向かうのが、やはりすぐ横にある「三位局屋形跡」。配流のさいに天皇の側役は三人のみ、そのうちの一人がこの屋形跡で暮らしていた「三位局(阿野廉子)」だ。その跡は竹藪の中にあり、当時もこの様な有様だったろうと偲ばれる。局お一人、寂しい日々を過ごしたのだろうか・・・。だが、後々「三位局(阿野廉子)」は「九七代・後村上天皇」をお産みになり御生母となり、それは輝かしい人生を歩む事になるのです。

民家の脇道を進めば「千福寺御座所跡」。えらく小さなお寺の跡だ・・・、何も感じず次へ向かう吾輩。
同じ道沿い、畑の横に「三位局屋形跡」の表示が出ている。
藪道を進めば、竹藪の中に屋形跡があった。こんな裏寂しところに住んでおられたとは・・・、その分、「後醍醐天皇」の寵愛をお受けになったのだろう。

 さて、次は「後醍醐天皇」の隠岐脱出ルートを(時間がなくなり車移動にて)巡る事にする。「黒木御所」の周りには多くの見張り番がいたはず、その目を誤魔化すためには御所前の別府港からの逃亡を避け、峠を越えて山向こうの集落・美田を目指したのだ。吾輩もそのルートを車で辿る、10分ほどで美田にある天皇の足跡

「後醍醐天皇・御腰掛石」前に到着した。

 その石の前で「後醍醐天皇」の脱走模様を吾輩は思いに耽る。『その昔、道も整備されていない峠を歩くのには、相当難儀しただろうに・・・、都では輿が当たり前なのだから。』そんなことを考えていたのだが、それは大違い! なんと、伝承によれば、島の旧家「木村家」の人々が「後醍醐天皇」を背負って峠を越え、美田の自宅にお連れになられたのだ。到着後、休憩を取るため腰掛けたのがこの目の前にある「御腰掛石」なのだ・・・。他人におぶって貰い休憩とは、いやはや人格を疑ってしまう(苦笑)。休みたいのは島民の方(絶句)。そんな身勝手な「後醍醐天皇」だが島民に人気があったとも記されている・・・本当かな?

 そんなことを考え、脱出の地と伝わる「美田の港」を暫く眺めて、この「西ノ島」を後にする事にした。次なる島・島後島へ向かうため別府港へ戻ることにする。

民家の中に「後醍醐天皇・御腰掛石」の誘導看板が現れた!
その方向に進めば民家の庭先に繋がっている、遠慮がちに前に進み、遠慮がちに写真を撮る。
この港から脱出されたと伝わっている。逆光で一枚、まぁまぁドラマティックに撮れた(自画自賛)。夜半がいいのだろうが、光が無く写真は撮れまい。
もう一つの御所跡へ、「黒木御所」説と「国分寺説」説、「国史跡」か「県史跡」?

 別府港8時発、島後島・西郷港8時45分着の「レインボージェット」に乗船。定刻通りに島後島・西郷港に上陸した。この島には「黒木御所」説より有力説と言われている、もう一つの御所説があるのだ。

島後島・西郷港、なかなか立派な港です。天気も安定している、本土行きのフェリー発の15時まで「後醍醐天皇」の足跡を巡る。
帰りの便に乗り遅れぬ様にしなければ、絶対に!

 西郷港で事前予約をしていたタクシーに乗り5分ほどで目的地前に到着。帰りの時間を伝え、ここ「闘牛場」前で拾ってもらう事にした。我ながら名案だ(島内のタクシーは少ないので予約が安全です)これで帰りも安心して散策ができる。

 タクシーを降り、闘牛場横に「隠岐国分寺」への参道がある。まっすぐ進めば「本殿」、その途中にある枝道に「もう一つ」の御所跡へと続く道だ。迷いなく枝道の御所跡へ進むと、これがどっこい枝道と思えば、それは立派な参道だった! 広い石畳に石灯篭まである、参道だけじゃない! 美しく整備された御所跡。今日朝に訪れた西ノ島・別府の「黒木御所跡」とは大きな差があるありさまだ。この差は「なぜ」なのか調べてみた、少し長くなるが語っておこう。

堂々たる門構えの「隠岐国分寺」。それに立派すぎる御所跡への参道、「なんだか、すでにこちらが本物っぽいなぁ・・・。

 それは初めに、江戸時代、隠岐を納めていた「松江藩」の公文書で「後醍醐天皇」の行在所(御所)として西ノ島の「黒木御陵」を記されていたのだが・・・。時代は明治に入り本土の歴史学者たちが「増鏡(南北朝時代の歴史物語の書)」に行在所(御所)は『海づらよりは少し入りたる国分寺と言ふ寺を、よろしき様に取り払いて、御座しまし所に定む』という記述が書かれてあると言い出した。また「太平記」には、『府(こう)の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす』と記されていた。即ち、「府の嶋」とは「国府のある島」という意味で、それはつまり島後島の「国分寺」に他ならないと発表したのだ! これにより「国分寺」説が有力となり、島後島の「国分寺」が「後醍醐天皇行在所跡」として国史跡に指定され整備されていった。西ノ島の「黒木御陵」との整備の差はその様なことからなのだ、納得だ。まぁ、吾輩にとって「真贋」は何方でも良い事なのだが(笑)。ただ、この整備された様を見ていたら、逆に西ノ島の方が歴史ロマンは有ると思う。

 ある意味で無機質な、広く整備された御所跡を歩いてみても余り心には響かないものだ。その時あるモノを発見した、「正面奥の玉城鎮守社に後醍醐天皇御尊像が祀られます」と書かれた地べた置きの朽ち果てかけた板を。これは面白そうなので向かう事にした。木立の中を数分進んだところに古びた社の「玉城鎮守社」が祀られていた。社の扉は閉まっていて、残念ながら外から御尊像が有るのか確認はできなかった。ただ、原生林の中を歩いていると、神道の原風景を感じることができた。

とにかく広い御所跡の敷地。そこに似つかわしくない木札が立てかけてある!?
木札が記していた「玉城鎮守社」、原生林の中に鎮座していてなかなか絵になる。

 この後、「国分寺」の本堂も巡ったがあまり興味も持てず(京都在住の身、寺の建築物が新しく見えるのですよ)、時間には早いが門前に向かった。暇を持て余していた所にボランティアガイドらしき同世代の男性を発見、ちょっと話しかけて「いけずな」質問をしてみる(笑)。

 その質問は「どちらが島が、本当の後醍醐天皇の御所があったと思います?」

彼はこう答えた『どちらでもいいんですよ。島後は国史跡で、島前は県史跡。双方が少しでも潤えば(笑)。』 吾輩は声に出し「こりゃ、一本取られたなぁ」と、その返答に感銘した。彼にそのことを告げ、二人で笑った。そうしている間に送迎のタクシーがきた、彼にお礼を伝え車に乗り込んだ。走り出した車窓より、島後の町並みを眺めながら、旅の終わりに清々しい気分になれたことを感謝した。いい旅だった。

島後・西郷港出港、「くにが」の甲板にて。
さらば、隠岐諸島よ、もう来ることはないだろう。その島影を目に焼きつける、やはり写真も撮るのだ。
島根県松江市・七類港に17時38分、ほぼ定刻で到着した。

島前・西ノ島から島後島

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