第一二五回 陽光院太上天皇(誠仁親王)陵
追尊天皇陵編-05

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

安土桃山という時代に翻弄された、追尊天皇の御陵・月輪陵へ

「月輪陵」がある「泉涌寺・大門」

尊号/陽光院(ようこういん)太上天皇
御名/誠仁親王
生没年/西暦1552年(天文21年)~1586年(天正14年)
時代/安土桃山時代
続柄/正親町天皇(父)、後陽成天皇(子) 
陵名/月輪陵
陵 形 九重塔

所在地 月輪陵 京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺内 
最寄駅 JR・京阪本線「東福寺」下車、約一五〇〇m、徒歩約二五分。

 父「一〇六代・正親町天皇」、子には「一〇七代・後陽成天皇」を持つ「陽光院太上天皇(誠仁親王)」。

 「誠仁親王」は「正親町天皇」の嫡男でありながら皇位につくことなく早世した。皇位継承は当然のことであったが、宮中での資金難のため親王宣下を受ける元服さえも延期されていた。1568年(永禄11年)に「織田信長」が費用を負担してようやく実現した。

 天正年間に入ると、「織田信長」と対立した仏教寺院との間に入り、父「正親町天皇」に変わり争いを収めた。「石山合戦」などには、「信長」と「顕如」の講和の仲介者をした。1580年(天正8年)、勅命講和による最終的な解決のため、「顕如」に「石山本願寺」からの退去を説得する書状を送っている。

 また、「誠仁親王」は「信長」より献上された「二条新御所」と呼ばれた邸宅に居を構えていた。「誠仁親王」と「信長」は蜜月な関係だったが、1582年(天正10年)「本能寺の変」では「二条新御所」が襲撃され、危うく難を逃れ宮中に戻った。その後、「信長」の後継者となった「豊臣秀吉」は、上皇となる「正親町天皇」のための「院御所」を着手するなど、積極的に譲位を進めたが1586年(天正14年)「誠仁親王」は譲位を待たず34歳で薨去してしまう。

 「誠仁親王」の薨去後、遺児の「和仁親王」が同年に祖父「正親町天皇」の猶子とし皇位を譲られ「一〇七代・後陽成天皇」が誕生した。時期は不明だが、早世した父に「陽光院」と諡し、太上天皇の尊号を贈った。

 親王の墓所は太上天皇を追尊されたため「陵」と称され、その御陵は「泉涌寺」内の「月輪陵」に葬られている。

天皇・皇后・親王の御尊牌が179基、祀られている「霊明殿」

「霊明殿」の横を進めば、左入口が「月輪陵」拝所。右にも道が続いている。

何度も参拝にきた「月輪陵」拝所だ。

もう一度、入口に戻り右の道に行く。ただ、「民墓へのお参りされる方以外は立ち入らないで下さい」と宮内庁の御達しだ。この時はお参りする方に連れて行ってもらった。

少し歩けば御陵内が見渡せた。不敬者だな(苦笑)。

 京都市営地下鉄「烏丸御池」駅近くの「二条新御所」跡へ

ここも二度目だ、駅を出て地上に出れば約5分で「京都国際マンガミュージアム」。この辺りに信長が親王に贈った「二条新御所」があった。

「京都国際マンガミュージアム」から北へ歩けば「押小路通」。この辺りは京都らしい民家が残っている。

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