還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二

御 名 厩 戸 皇 子(うまやとおうじ)
諡 号 聖徳太子
生没年 敏達天皇三年(五七四年)~ 推古天皇三〇年(六二二年)
時 代 古墳時代後期~飛鳥時代
続 柄 三一代・用明天皇(父) 三三代・推古天皇(叔母)
墓 名 磯長墓
陵 形 円墳
所在地 大阪府南河内郡太子町大字太子(叡福寺境内)
最寄駅 近鉄長野線「喜志」下車、四市町村コミバス(近鉄バス)にて「聖徳太子 御廟前」バス停下車、徒歩約三分。
光が差し示した場所に眠っている聖徳太子、大阪太子町「叡福寺」
「聖徳太子」は「三一代・用明天皇」の第二皇子であり、「三三代・推古天皇」を叔母に持つ、後に「推古天皇」の皇太子となる。その実態は謎に秘められていて、本名は「厩戸王」「厩戸皇子」「豊聡耳皇子」など多くの御名があり明らかでない。叔母の「推古天皇」、摂政「蘇我馬子」と共に政を司り、「冠位十二階」や「十七条憲法」を定め天皇を中心とした国家体制の骨子を作り上げた。また、国内に仏教を進んで取り入れ信仰したことで、現在の仏教尊崇の対象「太子信仰」ともなっている。
その太子の「磯長墓」は、大阪府南河内郡太子町太子の太子宗の本山「叡福寺」境内「叡福寺北古墳」とされている(考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性が高い古墳)宮内庁治定の皇族墓として管理下にある。
墳形は楕円形、直径は南北に約四三メートル、東西に約五三メートル、高さは約一一メートルの三段築成の墳丘になっている。また、墳丘の裾周囲には「結界石」と称される列石に巡らされ、開口部には「御霊屋」と称される唐破風屋根の覆屋が建立されている。この「磯長墓」は「三骨一廟」とも呼ばれ、太子の他に「穴穂部間人皇女(用明天皇皇后・皇子母)」と「膳部菩岐々美郎女(皇子妃)」が眠る、三者の合葬墓である。

下・石段を登れば朱色の南大門、左右には仁王像、門上の額に「聖徳廟」と書かれている。


香炉があった。なんだかいつもと違う・・・、香炉は良いとして賽銭箱とは、少し俗物的な感じがした(苦笑)。

下・「三骨一廟」の説明がされている、向かって右側が太子で、左側が妃、中央後ろに御母「穴穂部間人皇女」となっていた。なんだかこの位置関係が気になる・・・。


下・まぁ、とやかく言わずに線香を立て合掌することにした。

妙に太子の御母「穴穂部間人皇女」が気になり、太子親子の足跡を少し追いかける旅に出ることにする。

