第一四五回 聖徳太子(厩戸皇子)
磯長墓(叡福寺北古墳) <前編>
天皇陵・外伝編-06

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

大阪の太子町「叡福寺」境内にある「磯長墓」

御 名 厩 戸 皇 子(うまやとおうじ)
諡 号 聖徳太子
生没年 敏達天皇三年(五七四年)~ 推古天皇三〇年(六二二年)
時 代 古墳時代後期~飛鳥時代
続 柄 三一代・用明天皇(父) 三三代・推古天皇(叔母)
墓 名 磯長墓
陵 形 円墳

所在地 大阪府南河内郡太子町大字太子(叡福寺境内)
最寄駅 近鉄長野線「喜志」下車、四市町村コミバス(近鉄バス)にて「聖徳太子  御廟前」バス停下車、徒歩約三分。

光が差し示した場所に眠っている聖徳太子、大阪太子町「叡福寺」

 「聖徳太子」は「三一代・用明天皇」の第二皇子であり、「三三代・推古天皇」を叔母に持つ、後に「推古天皇」の皇太子となる。その実態は謎に秘められていて、本名は「厩戸王」「厩戸皇子」「豊聡耳皇子」など多くの御名があり明らかでない。叔母の「推古天皇」、摂政「蘇我馬子」と共に政を司り、「冠位十二階」や「十七条憲法」を定め天皇を中心とした国家体制の骨子を作り上げた。また、国内に仏教を進んで取り入れ信仰したことで、現在の仏教尊崇の対象「太子信仰」ともなっている。

 その太子の「磯長墓」は、大阪府南河内郡太子町太子の太子宗の本山「叡福寺」境内「叡福寺北古墳」とされている(考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性が高い古墳)宮内庁治定の皇族墓として管理下にある。

 墳形は楕円形、直径は南北に約四三メートル、東西に約五三メートル、高さは約一一メートルの三段築成の墳丘になっている。また、墳丘の裾周囲には「結界石」と称される列石に巡らされ、開口部には「御霊屋」と称される唐破風屋根の覆屋が建立されている。この「磯長墓」は「三骨一廟」とも呼ばれ、太子の他に「穴穂部間人皇女(用明天皇皇后・皇子母)」と「膳部菩岐々美郎女(皇子妃)」が眠る、三者の合葬墓である。

上・バス停からすぐ「叡福寺」が見える。小高い丘の上に建立されている。
下・石段を登れば朱色の南大門、左右には仁王像、門上の額に「聖徳廟」と書かれている。
南大門をくぐり境内に入る。真正面にもう一つ門があった、きっと太子の墓があると思い進んでいく。

「二天門」と呼ばれる門を通り参拝所に到着。墓の前には賽銭箱と線香を立てる
香炉があった。なんだかいつもと違う・・・、香炉は良いとして賽銭箱とは、少し俗物的な感じがした(苦笑)。
上・いつもの宮内庁表示、そこには「推古天皇皇太子聖徳太子」とされている。推古天皇の養子となったんだろうか? と俗物的な考えをしてしまう、これこそ不敬だ(笑)。
下・「三骨一廟」の説明がされている、向かって右側が太子で、左側が妃、中央後ろに御母「穴穂部間人皇女」となっていた。なんだかこの位置関係が気になる・・・。

「御霊屋」の横から墳丘の裾根を囲むように、二段の「結界石」が張り巡らされている。弘法大師が一晩で建てたと伝えられているが、そんなわけない(笑)。
上・「御霊屋」の唐破風屋根には「釈迦如来」が飾られている、本当は菊の御門ではないのかな・・・。
下・まぁ、とやかく言わずに線香を立て合掌することにした。
境内を後にして、対面の丘に登り「磯長墓」の全貌を撮影でこの旅が終わる予定だが・・・。
妙に太子の御母「穴穂部間人皇女」が気になり、太子親子の足跡を少し追いかける旅に出ることにする。
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