還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
近現代 一二二~一二四代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
伏見桃山陵(明治天皇陵)
一二二代/明 治(めいじ)天 皇 陵
諱/睦 仁 むつひと
在位年/西暦一八六七~一九一二年
陵形/上円下方
皇居/江戸城(東京城)
所在地 伏見桃山陵 京都府京都市伏見区桃山町古城山
最寄駅 京阪本線「伏見桃山」下車、約2km、徒歩約30分。
「122代・明治天皇」は、生母「中山慶子」(当時の権大納言だった公家「中山忠能」の娘)の生家・中山邸の産殿で「121代・孝明天皇」の第二皇子として生誕した(孝明天皇にはすでに二人の子が誕生していたが、明治天皇生誕時にはいずれもすでに薨去していた)。
父の「孝明天皇」は皇子生誕をことのほか喜び、幼名を「祐宮(さちのみや)」と名付けた、この幼名は「明治天皇」の曽祖父である「119代・光格天皇」と同じ幼名である。ただ、この時点で「祐宮」の皇位継承は確定したものではなかった。生母の「慶子」は、天皇の正室になれる「五摂家」でなかったためである。
1867年1月、「孝明天皇」の突然の崩御に伴い、皇位継承する可能性のあった三人の親王でなく「祐宮」が「122代天皇」となった。翌年1868年8月(旧暦10月12日)に京都御所にて「即位の礼」を行い即位を対外的に宣明した。また、これにて近代国家としての日本が生まれていく、年号を「明治」とし「五箇条のご誓文」を定め、京都から東京に遷都した。
討幕を成し遂げた薩長閥中心の明治新政府は、国民に新政府の威光を示すため天皇を「現人神」とし国民の精神的支柱とした。そして、富国強兵へ向かって行き「日清・日露戦争」に発展していく。「明治天皇」は、61歳で崩御するまでの在位期間46年間、新政府が狡猾に利用し続けたようにも見える。
その御陵は「明治天皇」の遺詔により、伏見桃山の地に陵所を定めたといわれている。東京青山に設けられた葬場殿において「大喪の礼」を行い、柩を列車にて移動し「伏見桃山陵」に埋葬をした。御陵の形状は「上円下方」、そして、関西地方に葬られた、最後の天皇陵である。
京阪本線「桃山桃山」を下車、ひたすら府道79号を東に向かい進む。途中、御香宮神社の大鳥居をくぐりJR奈良線を越える、そうすると「伏見城への道」との分岐がある。私は「大階段」を登るため(苦笑)府道を進む! 「大階段」を避けたい御仁には「伏見城への道」です。
これが「大階段」だ! 見上げるとなんと段数230段・・・。 後悔先に立たず。やはり還暦越えには「伏見城への道」が良かったかも・・・。
頂上に上り詰めれば、思った以上に広い御陵前のスペース。ここで埋葬時に大勢が集まり祭祀を行なったのだろうか。
近づけるところまで近づいた、白州が輝き美しい。
御陵をもう少し近くで見たいと思い、望遠レンズに変えた、これも不敬だな(苦笑)。
御陵より振り返れば、宇治市や城陽市の街並みが見えた。
冬の訪問・参拝写真も掲載しときます。この時は寒かった・・・、春・秋の参拝をお勧めします。
ただ冬の雪景色は美しい。機会があれば訪れて欲しい風景です。
おまけで案内図を掲載します。階段を登りたくない人用です(笑)。
さぁ、多く残る「明治天皇」の足跡を訪ねる旅に出発します。