還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
平安時代<後期>第五八回 七二代 白河天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

成菩提院陵(白河天皇陵)

七二代/白 河(しらかわ)天皇陵
諱/貞仁 さだひと 
在位年/西暦一〇七二~一〇八六
陵形/方丘  
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮

所在地 成菩提院陵 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町
最寄駅 近鉄京都線・京都市地下鉄烏丸線「竹田」から、約800m・徒歩約10分。

 七一代・後三条天皇の第一皇子。白河天皇は先帝の意思をついで、政治の中心から藤原氏をしめだすことに成功する。これにより、繁栄を極めた藤原氏は没落していく。
 その後、白河天皇の自身が政治の実権をにぎり、思うがままの政を行うことになる。退位後も上皇となり院政をひいた、はじめての天皇。また、武士と結びつくことで源氏や平氏が力を持つようなりはじめる。天皇・貴族から、武士の政への道筋となっていった。貴族時代であった平安時代が終わり、 武士の時代へと進んでいった。
 白河法皇は自身の死後は土葬されることを望んだが、遺恨がある興福寺の僧兵が報復として「墓暴き」の計画を知り、急遽火葬にするように命じたという。崩御時にはまだ遺骨を納めるための「成菩提院」が落成していないため、衣笠山の山麓で荼毘に付され「香隆寺」に一次的に埋葬した。そして天承元年(1131年)成菩提院に遺骨を改葬した。
 
 

駅から近く分かりやすい場所にあり、第二京阪道路の高架の真下にある。
高架を車で走ると御陵を見下ろすことになる、これは不敬だな(笑)。

 
 
白河天皇火葬塚

市道183号線(きぬかけの路)から北向きに斜めの道を50mほど進む、左手に路地裏のような細い道がある。
これを勇気を出し進めば火葬塚だ。
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