第七五回 九〇代 亀山天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
鎌倉時代 八二代〜九五代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

亀山陵(亀山天皇陵)

亀山天皇陵

九〇代/亀 山(かめやま)天 皇 陵
諱/恒仁 つねひと 
在位年/西暦一二五九~一二七四年
陵形/方形堂 
皇居/平安京 

所在地 亀山陵 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町  天竜寺内 
最寄駅 京福電車「嵐山」下車、約500m、徒歩約6分。

 父の88代・後嵯峨天皇の強い要望で89代・後深草天皇から実弟に譲位し、弟の90代・亀山天皇が即位する。父母の鍾愛を受けていた実弟に、余儀無く譲位したことが引き金となり、亀山系「南朝(大覚寺統)」と後深草系「北朝(持明院統)」の対立が始まった。

 また、渡来した新しい教えである「禅宗」などを手厚く保護し、蒙古襲来により消失した筥崎宮社殿(現・筥崎宮)の再興にあたり亀山上皇(天皇)は「敵国降伏」の宸筆(天子の直筆)を納めたと言われている。

 その御陵は「天竜寺」の父・後嵯峨天皇陵(嵯峨南陵)の横にあり、火葬塚も父と同じく「天龍寺」近くの「亀山公園」内にある。火葬された後、三っの寺院に納骨された、その一つが「臨済宗・南禅寺・分骨所」。
 
 

亀山天皇陵
亀山天皇陵
御陵のある「天竜寺」の総門。「88代・後嵯峨天皇」と親子仲良く並ぶ御陵は微笑ましいが・・・、
この後の南北の諍いを考えていたのだろうか。

南禅寺・分骨所 

南禅寺
「水路閣」で有名な「蹴上」の「南禅寺」。
南禅寺
南禅寺
「水路閣」から「南禅院」のわきを抜けると「亀山天皇・分骨所」。禅寺の「侘び」を感じさせる佇まいだ。

福岡市博多区・東公園

東公園
亀山上皇銅像
JR博多より一駅手前の「吉塚」駅近にある「東公園」、シンボルの亀山上皇の銅像。
天皇の銅像というのが珍しく福岡まできた(笑)。やはり、元寇から博多の町を守った天皇だからかな。

筥崎宮

筥崎宮
筥崎宮から海に向かって約1km「筥崎浜」に建つ鳥居。
一之鳥居と楼門、一之鳥居は慶長14年(1609年)に黒田長政が奉納したもの。
筥崎宮
亀山上皇御宸筆の扁額「敵国降伏」、また「伏敵門」とも呼ばれている。
この意味は「武力ではなく徳をもって敵を降伏させる」・・・、台風が元を退散させましたが(苦笑)。
筥崎宮
筥崎宮
境内には、応神天皇の御胞衣を祀る場所の標に植えられた松「筥松」があった。玉垣で囲われているので、その隙間から(また、不敬だな)。
その直ぐ横に「亀山天皇尊像秦安殿」だ、東公園の銅像の元となった木像。
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