第八一回 九六代 後醍醐天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
南北朝時代 九六〜一〇一代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

塔尾陵(後醍醐天皇陵)

後醍醐天皇陵

九六代/後醍醐(ごだいご)天皇陵
諱/尊治 たかはる 
在位年/西暦一三一八~一三三九年
陵形/円丘 
皇居/平安京 

所在地 塔尾陵 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾  如意輪寺内 
最寄駅 吉野口ロープウェイ「吉野山」下車、約3km、徒歩約40分。

 95代・花園天皇(持明院統・北朝)の退位に伴って、1318年に96代・後醍醐天皇は(大覚寺統・南朝)中継ぎ的な立場で即位した。鎌倉幕府に不満を持つ後醍醐天皇は、倒幕を決意し1324年「正中の変」、1331年「元弘の乱」と2度のクーデターを実行するが共に失敗した。失敗後、山中で身なりも整わないまま、発見されたとのことに「花園院(先帝・花園天皇)」は『王家の恥』とまで言わしめた。鎌倉幕府は後醍醐天皇を廃位し、後伏見上皇(93代天皇)の第三皇子「光厳天皇(北朝初代)」を即位させ、後醍醐天皇を隠岐島に配流した。

 その後、後醍醐天皇は隠岐島より脱出、時を同じくくして「足利尊氏」「新田義貞」が倒幕に決起し、鎌倉幕府倒幕を成功した。その恩恵をえて後醍醐天皇は帰京する。帰京した後醍醐天皇は、鎌倉幕府によって擁立された「光厳天皇」を廃し、天皇自らが政を行う「建武の新政」を宣言した。復権した後醍醐天皇だが「足利尊氏」との対立により、京から逃れ奈良県・吉野に「南朝」を開く、これにより「南北朝時代」が始まった。

 その御陵は「吉野朝」の近く、吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の「如意輪寺」内にある。通常の御陵は南向きだが、この御陵は北向きになっている。これは、北の方角にある京都に帰りたいという願いを表したものだと言われている。また、奈良県内に葬られた最後の御陵でもある。
 
 

如意輪寺
ロープウェイ「吉野山」から坂を登り徒歩40分「如意輪寺」に到着。
境内奥に参道を発見、分かっていたことだが階段がある・・・。
後醍醐天皇陵
おぉ、そんなに昇らずとも拝所に到着できた(喜)。
後醍醐天皇陵
後醍醐天皇陵
北向きの御陵に西日が射す。
後醍醐天皇陵
拝所に続く参道階段の途中にある「98代・長慶天皇」の皇子「世泰親王」の墓があった?

 
 

吉野朝宮跡(金峯山寺本堂・蔵王堂)

金峯山寺本堂
御陵からきた道を戻り金峯山寺本堂・蔵王堂に到着。
金峯山寺本堂
階段を昇れば「妙法院」が見えた、あの側が宮跡のはずだ。頑張って階段を下るのだ。
金峯山寺本堂
途中、「蔵王堂」に参拝も。
金峯山寺本堂
「妙法院」の手前に「吉野朝宮跡」の大きな石碑が立っている。

 
 

南朝皇居跡(吉水神社)

吉水神社
「金峯山寺」より徒歩約7分、また戻る・・・今日はよく歩く。
南朝の皇居があった「吉水神社」に着いた。
吉水神社
皇居跡からは「蔵王堂」が見える、どんな思い出で暮らしたのだろうか・・・。

 
 

後醍醐天皇陵から吉野朝宮跡、南朝皇居跡

タイトルとURLをコピーしました