第八八回 一〇三代 後土御門天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
室町・安土桃山時代 一〇二~一〇七代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

深草北陵(後土御門天皇陵)

深草北陵

一〇三代/後 土 御(ごつちみかど)天皇陵
諱/成仁 ふさひと 
在位年/西暦一四六四~一五〇〇年
陵形/方形堂 
皇居/平安京 

所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。

 「103代・後土御門天皇」は生母の出身身分が低く、将来には出家をさせるつもりだったが、父の「102代・後花園天皇」に他の皇子が生まれなかったため皇位継承ができた。

 在位中には「応仁の乱(1467~1477年)」が起き、室町幕府の末期、京都を中心に約11年もの間続いた。寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は逼迫し、朝廷は衰退していくばかりだった。さらに幕府の失政・腐敗が進行し、土一揆や徳政一揆が続発するようになると、京の都がさらに荒廃していった。

 乱の終結後、朝廷儀式の復興を望むが、思うように行かなかった。明応9年(1500年)に御所の黒戸にて崩御。葬儀の費用に乏しく、40日も御所に遺体が置かれたままと伝えられている。

 その御陵は、「深草十二帝陵」とも称されている深草北陵。また、遺骨の一部は、父の「後花園天皇」と同所の京都市上京区「般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)」に分骨されている。
 
 

後土御門天皇分骨所
後土御門天皇・贈皇太后 庭田朝子墓

後土御門天皇
般舟院陵には、京都市営地下鉄「今出川」から約1,7kmで徒歩25分くらいだった。閉まっている!?
立札を見れば九時からの開門だ、胸を撫で下ろして暫し待つ、カブに乗った係の人が来て無事参道へ。
後土御門天皇
ここには多くの皇族(親王・皇女)が眠っている。そして、「後花園・後土御門・後奈良天皇分骨所」でもある。
後土御門天皇
門をくぐり拝所へ向かう、30mほど行けば左にクランクして、また30m歩いたら拝所についたた。
後土御門天皇
こんな感じでクランクしていた、真っ直ぐだと魔物が入って来るからだろうか。
後土御門天皇
廟の扉にはもちろん「菊の御門」、ここまで来たので中の様子が知りたかった・・・残念。
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