還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
室町・安土桃山時代 一〇二~一〇七代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
深草北陵(後土御門天皇陵)
一〇三代/後 土 御(ごつちみかど)天皇陵
諱/成仁 ふさひと
在位年/西暦一四六四~一五〇〇年
陵形/方形堂
皇居/平安京
所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。
「103代・後土御門天皇」は生母の出身身分が低く、将来には出家をさせるつもりだったが、父の「102代・後花園天皇」に他の皇子が生まれなかったため皇位継承ができた。
在位中には「応仁の乱(1467~1477年)」が起き、室町幕府の末期、京都を中心に約11年もの間続いた。寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は逼迫し、朝廷は衰退していくばかりだった。さらに幕府の失政・腐敗が進行し、土一揆や徳政一揆が続発するようになると、京の都がさらに荒廃していった。
乱の終結後、朝廷儀式の復興を望むが、思うように行かなかった。明応9年(1500年)に御所の黒戸にて崩御。葬儀の費用に乏しく、40日も御所に遺体が置かれたままと伝えられている。
その御陵は、「深草十二帝陵」とも称されている深草北陵。また、遺骨の一部は、父の「後花園天皇」と同所の京都市上京区「般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)」に分骨されている。