第九四回 一〇九代 明正天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
江戸時代  <前期> 一〇八~一一二代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

月輪陵(明正天皇陵

「月輪陵」と明正天皇が再興した「十禅寺」

一〇九代/明正(めいしょう)天皇陵
諱/興 子 おきこ 
在位年/西暦一六二九~一六四三年
陵形/九重塔 
皇居/京都御所 

所在地 月輪陵 京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺内
最寄駅 JR・京阪本線「東福寺」下車、約1,5km、徒歩約25分。

月輪陵

 「108代・後水尾天皇」の第二皇で、徳川幕府二代将軍「徳川秀忠」の五女の源和子(東福門院)を母に持つ「109代・明正天皇(興子)」。1629年、興子・7歳で父の先帝より譲位を受けて践祚した。女子の即位は男子の不在(夭逝)のため「称徳天皇」以来、ここに859年ぶりに女性天皇が誕生した。また、鎌倉・足利・徳川、三大幕府の将軍家を外戚とした唯一の天皇でもある。

 幼帝のため在位中の14年間は父の「後水尾上皇(108代天皇)」による院政が敷かれ、朝廷における実権を持つことはなかったとされる。幕府と朝廷の間で翻弄され続け配偶者もなく、74歳で生涯を閉じた女性天皇。

 その御陵は「泉涌寺」内の「月輪陵」に葬られている。
 
 

明正天皇が再興した「十禅寺」

 今回も「月輪陵」なので、「明正天皇」の足跡を探し出し山科にやってきた。JR

「京都」より湖西・琵琶湖線に乗り「山科」に到着、改札を出て京阪・京津線の踏切を越えて突き当たれば「十禅寺」。踏切前には参道を表す標石が建っている。徒歩約7分、500m。

 この「十禅寺」は度重なる戦火により荒廃したが、1655年、霊夢を見た「明正天皇」によって再興されたと言われている。そして、「正観世音菩薩」に信仰が厚い天皇は、遺言で自信と父母の位牌を安置させ、菩提寺勅願所とした。

 見た目は普通の民家に見えるけど・・・・。

でも瓦には、ちゃんと菊の御門があった。危うく不敬な言葉を吐くところだった(苦笑)。

「大聖寺」明正天皇の河原御所を移築した庭園が残る尼寺

 地下鉄「今出川」の地上出口の前にある「大聖寺」は、「御寺(おてら)御所」とも呼ばれる臨済宗の尼門跡。戦果で転々としたのち、この地に戻ってきたらしい、その時に「明正天皇」の「河原御殿」の資材を使い造られた枯山水の庭園がある。その庭園は名勝として京都市指定文化財にもなっている。

 向かいには同志社大学の校舎が見えた。

 門前の説明板を読み境内へ、だが・・・。その庭園は書道教室から望む庭らしい、この日は尼層らしき坊様に話を聞くだけにして退散した。何だか尼層は苦手だ・・・。 

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