第一〇九回 一二二代 明治天皇陵 <中編>

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
近現代 一二二~一二四代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

伏見桃山陵(明治天皇陵)

一二二代/明 治(めいじ)天 皇 陵
諱/睦 仁 むつひと 
在位年/西暦一八六七~一九一二年
陵形/上円下方 
皇居/江戸城(東京城) 

所在地 伏見桃山陵 京都府京都市伏見区桃山町古城山 
最寄駅 京阪本線「伏見桃山」下車、約2km、徒歩約30分。

大階段下、「皇后陵」への標識案内。

昭憲皇太后・伏見桃山東陵

 「伏見桃山陵」を参拝後、230段の大階段を降り東横に並ぶように眠りについている「昭憲皇太后・伏見桃山東陵」を目指した。「昭憲皇太后」は「122代・明治天皇」の皇后で明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)64歳で崩御した。

 「昭憲皇太后」の社会貢献度は大きく、国際化を目指すため欧州貴人とも対等に接することができるように、近代女子教育を進めていった。現在まで続く学習院女子中・高等科(当時・華族女学校)、お茶の水女子大学(当時・お茶の水の東京女子師範学校)を設立した。また、慈善事業にも尽力され「日本赤十字社」の発展に貢献された。

 大階段とは比べ物にならないくらい、優しい階段を上る。「昭憲皇后」の御陵に到着。
ここへは、大階段をくだらなくても「伏見桃山陵」から来られる参道があります。

 「伏見桃山陵」より小ぶりな御陵(当たり前か・苦笑)。緑と青空のコントラストが美しい御陵だ!

 少し散策している間に日が陰ってしまった・・・、レンズチェンジでよりの御陵も撮影しときます。

「天道神社 明治天皇皇后御胞衣塚」

 御陵より京阪本線「伏見桃山」まで戻り京阪本線に乗車、「祇園四条」で下車。阪急京都線「京都河原町」に乗り換え「大宮」まで乗車、徒歩約5分で「明治天皇皇后御胞衣塚」のある「天道神社」に到着。

 この「天道神社」には「皇大神宮・天照大神」を御主神とし、そのほかにも「正八幡大神、春日大明神」が祀られている。

「明治天皇・皇后陵」の流れで訪れた「天道神社 明治天皇皇后御胞衣塚」、
町家が並ぶ中の一角に「天道神社」があった。

鳥居をくぐれば直ぐに拝殿だ、その右横に「明治天皇皇后御胞衣塚」が祀られていた。こんな小さな神社に「皇后御胞衣塚」があることが、何だか不思議に感じられた・・・。

京都御所・中山邸跡「祐の井」

 「天道神社」より徒歩約15分、京都市営地下鉄「四条」より乗車。「今出川」にて下車「京都御所」に到着。「中山邸跡」にある「明治天皇」由来の「祐の井」に向かう。

 「京都御苑・中山邸跡」には、祐宮(さちのみや・明治天皇の幼名)が誕生した産屋と、「祐の井(さちのい)」と名付けられた井戸が残っている。この名の由来は、明治天皇がご誕生になった翌年の夏に日照りが続き、京都周辺の井戸が涸れ水不足になった。天皇の外祖父であり養育者「中山忠能」が邸内で、その時、掘った井戸が日照りの中でも水が湧き出たと伝えられている。それをお聞きになった父帝「孝明天皇」がたいそう喜ばれ、その井戸に「祐の井」と命名されたと伝えられている。

京都御苑
中山邸跡

不敬だが望遠で覗いてみる。柵の隙間から「祐の井」が、ちゃんと見えた。

産屋らしき建築物も残っていた、木立の隙間から撮影。これも全くもって不敬の至だな・・・。

さぁ、京都での足跡はこれにて終了。次を目指すため京都駅に向かう。

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