第九〇回 一〇五代 後奈良天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
室町・安土桃山時代 一〇二~一〇七代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

深草北陵(後奈良天皇陵)

深草北陵(深草十二帝陵)と後奈良天皇勅願寺「本禅寺」

一〇五代/後奈良(ごなら)天皇陵
諱/知仁 ともひと 
在位年/西暦一五二六~一五五七年
陵形/方形堂 
皇居/京都御所 

所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。

 1526年、父の先帝・後柏原天皇の崩御にともない践祚し「105代・後奈良天皇」となる。だが、この時には朝廷の財政は窮乏を極め「即位式」を行う事ができず、有力戦国大名に寄付を募り10年後の1535年にようやく「即位式」を行う事ができた。

 その人柄は清廉で、逼迫した朝廷の財政立て直しのため「宸筆(天子の直筆)」の書を売って収入の足しにしていたと伝えられている。また、国家と臣民の安寧を願い全国の一宮に「宸」筆の「般若心経」を奉納している。

 その御陵は、「深草十二帝陵」とも称されている深草北陵。また、京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内「月輪陵」には「灰塚」がある。
 
 

後奈良天皇勅願寺「本禅寺」

 今回も「深草北陵」なので「後奈良天皇」の足跡を求め歩き、ここ「本禅寺」に来た。
 「本禅寺」は1406年、法華宗陣門流の門祖「日陣」によって創建されたお寺らしい。1536年の「法華一揆(天文法華の乱)」では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。1540年、京都に戻ったのち、2年後「後奈良天皇」より法華宗帰洛の「綸言の旨」を下し、堺に避難した寺々も京に戻った。その後に「本禅寺」は「後奈良天皇」の「勅願寺」となった。

 「本禅寺」には、京阪本線「出町柳」から約650m徒歩約10分
寺町通り沿いにある山門だ、京阪本線「出町柳」から近く分かりやすい場所だ。

境内にある鐘楼堂の鐘は「大阪冬の陣」に「陣鐘」として使われたそうだ、後奈良天皇と全く関係ないが(苦笑)。

本堂は珍しい土蔵造りだ、この本堂は1825年の再建らしい。

秋には金木犀の香りに包まれるらしいが、残念だ訪問時期がズレてしまった。

タイトルとURLをコピーしました