還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
怨霊となった崇道天皇陵へ、御霊は静かに眠っているのか
尊 号 崇 道(すどう)天 皇
御名/早良親王
生没年/西暦750年(天平勝宝2年)~785年(延暦4年)
時代/奈良時代
続柄/光仁天皇(父)、桓武天皇(兄)
陵名/八島陵
陵形/円墳
所在地 八島陵 奈良県奈良市八島町
最寄駅 JR桜井線「帯解」下車、約1,7km、徒歩約25分。
「崇道天皇」こと「早良親王」は、「四九代・光仁天皇」の皇子で「五〇代・桓武天皇」が同母兄である。その生い立ちは、天智天皇の孫「白壁王(後の光仁天皇)」と母方の血筋も下級貴族の出とあり、帝はもちろん官人としての出世も望めなかった(この頃、皇統は天武天皇系で継承されていたため)。そのため11歳で東大寺へ出家する。770年に父が「四九代・光仁天皇」として即位、その後781年には兄が「五〇代・桓武天皇」に即位する。この事により「早良親王」は還俗し、皇太弟として立太子された。
785年9月、長岡京の造営が進む中、その責任者である造長岡宮使「藤原種継」が暗殺された。その暗殺に「早良親王」の関与があるとみられ、事件より4日後には「乙訓寺」に幽閉された。親王は身の潔白を証明するため食を断ち、無実を訴え続けるが同年10月に廃太子となり淡路へ配流となった。その護送中、「早良親王」は絶食よる衰弱にて現・大阪府守口市の高瀬神社付近「高瀬橋頭」死去したという。遺体はそのまま淡路へ運ばれ葬られた。
その御陵は、奈良県奈良市八島町にある「八島陵」。親王から「崇道天皇」と追尊されたことより「崇道天皇陵」とも呼ばれる。御陵の形状は、遠目には方形墳のように見えるが「陵墓要覧」では円墳と分類されている。
美しく整備されている「崇道天皇陵」。御霊を鎮めるため、今日もきれいに清めているのだろうか。
御陵には珍しく、拝所前にベンチがある。怨霊と言われた「追尊天皇」だが、なんだかここに座ればほっこりとする。
「五一代・平城天皇」の勅命により創建された「崇道天皇社」へ
JR「奈良」より約2km、徒歩・約30分で「崇道天皇社」到着。小さなお宮だが本殿が重要文化財らしい。鳥居をくぐって細長い参道を通り境内へ進む。
ここは「五一代・平城天皇」の勅命により創建された由緒ある神社で、もちろん「早良親王」の怒りを鎮めるために祀られたのだ。それほど恐れていたのだろう、当時の「呪い」は今でいう核兵器のように恐ろしモノだったんだろう。
余談だが、2021年7月22日に近隣の火災により御本殿の屋根の一部が燃えたらし。だが大きな被害にならず済んだ、これは「早良親王」の怒りも鎮まり神と成られたのだろう。
もう少し「早良親王」のことを追いかけたくなった、淡路島に渡る事にした。