第一三三回 神功皇后 狹城盾列池上陵 <前編>
天皇陵・外伝編-02

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

全国第12位の大きさの陵は、間違いなく王の墓だろう

神功皇后陵(狹城盾列池上陵・奈良市)

御名/神功皇后(じんぐう)
諱/気長足姫(おきながたらしひめ)
生没年/成務天皇40年~神功皇后69年
時代/古墳時代 前期
続柄/一四代・仲哀天皇(配偶者) 一五代・応神天皇(子)
陵名/狹城盾列池上陵
陵形/前方後円

所在地 狹城盾列池上陵 奈良県奈良市山陵町 
最寄駅 近鉄京都線「平城」下車、約四〇〇m、徒歩約六分。

 「神功皇后」は、明治時代まで一部史書などに「一五代・天皇」と記され、初の女帝(女性天皇)とされていた。だが1926年(大正一五年)の皇統譜令に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から除外された。

 その足跡は、193年(仲哀天皇二年)「一四代・仲哀天皇」に立后され皇后なる。「仲哀天皇」の「九州・熊襲征伐」に随伴したと言われ、200年(仲哀天皇九年)の天皇崩御後、その意志を継ぎ「熊襲征伐」を達成した。また同年、海を越え「三韓征伐」をも達成し「新羅・百済・高句麗」を服属したとも記されている。帰国後、筑紫の宇美で「仲哀天皇」の遺児「誉田別尊(後の一五代・応神天皇)」を出産した。畿内にて反乱を起こした「香坂皇子、忍熊皇子」、「誉田別尊」にとっては異母兄にあたる二人を乱の平定により排除し、その後「誉田別尊」が「応神天皇」として即位する。「仲哀天皇」崩御から「応神天皇」即位までの約七〇年間、摂政として初めて統治したとされている。

 その御陵は奈良市山陵町にある「狹城盾列池上陵」で、遺跡名「五社神古墳」とも言われている。墳丘長は推定復原で275m(後円部直径・約194m、前方部幅・約155m、高さ・約26m)あり全国12位の規模の前方後円墳である。

 

近鉄「平城」の駅から東に進むべき道を間違え西に進んでしまった・・・。でも、ちゃんとこちらからも参道があった(よかった)。

坂を登り円を描くように進むと拝所が見えてきた。

正面からの一枚。御陵の大きさが分かりづらい・・・。

ならば、朝日に輝く御陵拝所でどうだ!(笑)

東側から順光での一枚。

そして、すぐ横にあった東側の参道。こちらの方が駅近だと思う。

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