第一四一回 市辺押磐皇子 市辺押磐皇子塚(福井県) <後編>
天皇陵・外伝編-04

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

福井県大飯郡おおい町名田庄村挙原の山中にある「市辺押磐皇子塚」

御 名 市 辺 押 磐 皇 子(いちのへのおしはのみこ)
生没年 生年不詳~安康天皇三年
時 代 古墳時代
続 柄 一七代・履中天皇(父) 二三代・顕宗天皇(子) 二四代・仁賢天皇(子)
墓 名 市辺押磐皇子塚
陵 形 前方後円
所在地 福井県大飯郡おおい町名田庄村挙原 
最寄駅 なし

さらにある。三つ目の墓は、福井県の山中の「市辺押磐皇子塚」

 「市辺押磐皇子」三つ目の墓(塚)は、「近江地方」と「若狭地方」の境となる三国峠の北西近く、福井県大飯郡おおい町名田庄村挙原(あげはら)にある。この墓(塚)は「皇子塚」また「御子塚」と呼ばれ、山中の中の小さな前方後円墳と言われている。この場所を「市辺押磐皇子」の墓(塚)と、江戸時代中期の国学者「本居宣長」が「古事記伝」の中で治定している。そのような事から、宮内庁の治定している「磐坂市辺押磐皇子墓」に異論を唱える識者も多い。

 この塚のある「挙原」は、昭和四八年(1973年)まで「挙原村」と呼ばれていたが、この年に最後の一人が移住したことにより廃村となった。それまでは、年に二度、春と夏に「皇子塚講」として花やお餅などで供養したと伝わっている。

福井県小浜市で軽自動車をレンタして、国道162号線にて南下する、「名田荘久坂」という町から県道35号線に入った。

2kmほど走れば最後の集落であろう「名田庄虫鹿野」で車を止め、この先の道中の安全を「皇王神社」で祈った。皇子塚に参拝するのだから、「皇王神社」とは何か繋がりがあるかも知れないと思い。

「皇王神社」から6分ほど走れば、幅狭の道に突入。対向車が来ればにっちもさっちも行かないだろう。さらに進めば舗装道なのだけれど補修がされてない悪路と変わった・・・ガレを踏んでのパンクが怖い、慎重に走らせる(汗)。そこから2分ほどで橋を渡れば、轍のある土道になったのだ・・・これは俗にいう酷道だ(涙)。そしてようやく道表示のある分岐に到着。左が塚へと向かう道のようだ。

道表示から約3分、目的の「市辺押磐皇子塚」入口に到着。国道から約20分距離にして約10kmだが寿命が縮まる心地だ・・・。「史蹟・皇子塚」の案内表示に「ほっ」と胸をなで下ろすも、その先の道(参道らしき獣道)を見て絶句した。

ここまで来た道、県道35号線は、この先から「林道・挙原本線」となり、乗用車での走行は無理なので注意です。

案内表示の対面あたりに駐車し塚へ向かうことにした。

初めの登りには木の階段が敷かれている、少し朽ち果て気味だが・・・。振り返ると案内表示の看板がまだ見える。

登っていけば、左手の草むらの中に板が架かっていた。谷渡りの橋か? 廃村になった挙原村へ向かう道かも知れないなぁ。

登りが終わり、開けたシダの密集地に出た。踏み慣らされた獣道が続く先に塚があるようだ。

ようやく、案内表示が見えた! 5分程の行程だったが、何やら疲れた・・・。昨今、多いツキノワグマ被害にビビっている吾輩だ。

案内表示「史蹟・皇子塚」の後ろに自然石を積んだ石壇を発見。あれが皇子の塚のようだ。

塚には花が添えられている、誰かが詣った後のようだ。近くに寄れば、その花は造花だった・・・、そらそうだと思い手を合わせ参拝する。

自然石の石壇の上には加工された墓石のような「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」らしきものが乗せてある。文字が彫られているのだが、梵字のようで読めない(教養がないので仕方がない・苦笑)。

前方後円墳と言われているので周囲から見てみた、言われればそうも見えるが・・・どうなのだろうか。

そろそろ、帰る時間だ。市辺押磐皇子の旅も終わりだ、小浜に戻って旨い酒と肴を頂こう。次の旅への力を付けるために(笑)。

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