第七八回 九三代 後伏見天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
鎌倉時代 八二代〜九五代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

深草北陵(後伏見天皇陵)

後伏見天皇陵

九三代/後伏見(ごふしみ)天皇陵
諱/胤仁 たねひと
在位年/西暦一二九八~一三〇一年
陵形/方形堂
皇居/平安京 

所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町 
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。

 93代・後伏見天皇は、父92代・伏見天皇皇后「中宮西園寺鏱子」の養子となる。わずか2歳で立太子、父・伏見天皇の譲位により、11歳で即位。当然のことながら伏見上皇が院政を敷いた。だが、2代続けて「持明院統(北朝)」が天皇となったため、「大覚寺統(南朝)」は不満を幕府に訴えた。そのため、14歳で「大覚寺統(南朝)」の後二条天皇に譲位した。

 御陵は「持明院統(北朝)」の歴代が葬られている「深草十二帝陵」とも称されている「深草北陵」。
 
 

伏見殿跡周辺

<大光明寺 相国寺 伏見宮墓地 妙音弁財天>

後伏見天皇陵
93代・後伏見天皇も先代と同じ「深草北陵」なので、今回も「伏見殿跡周辺」の探訪をすることにした。
大光明寺
後伏見上皇(93代天皇)の亡き後、後伏見上皇の女御「西園寺寧子( ねいしまたはやすこ)」が上皇の菩提を弔うため、
伏見殿敷地内に建立した「大光明寺」。現在の所在地は、鎌倉時代の場所とは少し違うみたいだ。
相国寺
同じく伏見殿敷地内にあった、伏見宮(持明院統・北朝)ゆかりの「相国寺」。
相国寺
相国寺
相国寺の総門の近く飛地にあたる「相国寺内・伏見宮墓地」。ここには、伏見宮家関係の墓が75墓もある。
道から見ると、大きな木とその周辺を囲う土塀が確認できた。
妙音弁財天
伏見宮墓地から徒歩約10分ほどで「妙音弁財天」だ。

やはり、後伏見上皇といえば「西園寺寧子(広義門院)」だろう。上皇亡き後、北朝を継続させるため皇室でもないのに、事実上「治天の君」となった日本史上唯一の女傑を祀る弁天さま(また、不敬を言ってしまった・・・)。

ここも相国寺の塔頭・大光明寺の飛地、どれほど広いんだ・・・。

妙音弁財天
上・妙音弁財天は京洛七福神の一つで、技芸上達や福徳円満のご利益がある。
この歳でも撮影が上達したい、本堂にお参りだ(笑)。
下・六角堂には、寧子(広義門院)が後伏見上皇(天皇)に輿入れの際、
「念持仏」として伏見殿に祀ったと伝わる、「妙音弁財天画像」の掛け軸が祀られているらしい。

伏見殿跡周辺
大光明寺 相国寺 伏見宮墓地 妙音弁財天

タイトルとURLをコピーしました