第一〇一回 一一六代 桃園天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
江戸時代  <中期> 一一三~一一七代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

月輪陵(桃園天皇陵)


「月輪陵」と「東福寺 芬陀院」

一一六代/桃園(ももぞの)天皇陵
諱/遐仁 とおひと 
在位年/西暦一七四七~一七六二年
陵形/九重塔 
皇居/京都御所 

所在地 月輪陵 京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺内 
最寄駅 JR・京阪本線「東福寺」下車、約1,5km、徒歩約25分。

月輪陵

 「115代・桜町天皇」の第一皇子。父の譲位により践祚、七才で即位した「116代・桃園天皇」、聡明で学問を好んだと伝えられている。

 1757年、天皇18歳にて「宝暦事件」が発生した。「竹内式部」が家塾を開き、若い公家たちに「垂加神道」の講義を通じ「尊王論」を説いた。そのことにより、朝廷内の尊王論者の若い公卿が多く幕府に処罰された。

 その事件の4年後に「桃園天皇」は、22歳の若さで崩御した。皇子の「儲君英仁親王」は幼いため、幕府が承認したのが「皇姉・智子内親王」だった。「皇姉・智子内親王」の即位を行うまで、「桃園天皇」の崩御したことを公表しなかった。 その御陵は「泉涌寺」内、「月輪陵」にある。

桃園天皇の中宮「恭礼門院御所」を下賜された「東福寺 芬陀院」

 今回も「116代・桃園天皇」の足跡を探していたが、中々、行き着くことができなかった(苦笑)。そこで、数度の火災に遭いその再建のため、桃園天皇の中宮(皇后)の「恭礼門院御所」を移築した「東福寺 芬陀院」にやってきました。

「東福寺 芬陀院」には、京阪本線「鳥羽街道」下車、徒歩10分、約500m。

 駅を出て十条通で京阪とJRの踏切を渡り、本町通に左折する。ここからひたすら真っ直ぐに進む、「南大門」を通り過ぎしばらく歩くと表示がある、ここを右折すれば「中大門」に到着。

門をくぐり80mほどで「芬陀院」に到着。

この建物全てが桃園天皇・中宮「恭礼門院御所」なのだろうか・・・?

拝観料の500円を払い、水墨画で有名な室町時代の「雪舟」作の庭を拝見する。

この「鶴亀の庭」は、「亀の画」の依頼を受けた「雪舟」が画ではなく石組によりこの亀島を主体とした庭園を作ったらしい。庭を作っていたある晩に、「亀島」の手足が伸び庭を徘徊したと言われている。ちょっと怖い話だな・・・。

茶室「図南亭(となんてい)」の丸窓から見る庭は、「重森三玲」が作庭したもので、小さな庭だが苔と石組が調和が見事だった。

明治天皇と昭憲皇后の御影が飾られている部屋があった。真正面からの撮影は、不敬と考え少し斜交いからの一枚。

おぉ!! この唐門は間違いなく桃園天皇・中宮の「恭礼門院御所」を移築した一部だ。見つけられて嬉しいです(笑)。

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