還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
平安時代<後期>第五四回 六八代 後一條天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

菩提樹院陵(後一條天皇陵)

六八代/後一條(ごいちじょう)天皇陵
諱/敦成 あつひら
在位年/西暦一〇一六~一〇三六
陵形/円丘  
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮

所在地 菩提樹院陵 京都府京都市左京区吉田神楽岡町
最寄駅 京阪本線「神宮丸太町」から、約2km・徒歩約25分。

 六八代後一條天皇は、六六代一条天皇の第二皇子で、摂関家藤原道長の孫にあたる。六七代三条天皇の譲位を受けて数え八歳で即位した。
 幼帝のため、祖父の「藤原道長」を摂政とし、その後も息子の「藤原頼道」を摂政そして関白にまでした。
 道長は自らの子供たちを、男子は摂政、関白、その他の要職をも独占し、女子には天皇や皇太子の室となって藤原家の地位を不動のものとしていった。
 その中、後一條天皇は数え二九歳で皇子に恵まれぬまま、突然の崩御となった。そのため、譲位の儀式が間に合わなかったため、遺詔により、喪を秘して弟の敦良親王への譲位の儀を行ったとされている。

民家を抜けて緩やかな坂を昇れば、御陵に着いた(楽だった)。
この御陵には何故だか、娘の章子内親王(七〇代後冷泉天皇皇后)と合葬されている。
道長の魂胆か!?(苦笑)

 
 
菩提樹院陵(後一條天皇陵)

 
 
土御門殿跡(京都市)

後一條天皇の軌跡を辿っているのに、道長ばかりがあらわれる・・・。
京都御苑・仙洞御所の東北部一帯は、道長の邸宅跡があった所。
有名な「望月の歌」を詠んだのもこの場所でだ。「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることのなしと思へば」

土御門殿跡

 
 
法成寺跡(京都市)

京都御苑から寺町通を挟んで、道長によって創建された、摂関期最大級の寺院跡がひっそりあった。
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