ソノひびヨリ
2019年~2020年
屋島で破れ、平氏は何を思う。その行き先は・・・。
翌日は天気に恵まれた、車を走らせ向かうのは、高松市屋島東町にある「安徳天皇社」。屋島半島の東側海岸に広がる町の中に鎮座している。
ここは、眼前に入り江を望み、背後に険しい屋島の峰々があり、戦に有利な場所であった。平宗盛は、行宮を建て陣営をつくのが「安徳天皇社」のあたりだと言われている。確かにこの地形を見れば、平氏軍が優勢に戦えたはずだが・・・。源義経軍の背後からの奇襲で、全軍総崩れで敗北だ。なんとまぁ、「一ノ谷」の時も背後からの奇襲だったが、2度同じ攻められ方で負けるとは・・・。
次に向かうのは屋島スカイウェイを走って、車で約17分くらいの「源平屋島古戦場」だが、あまりにも地形が分りにくいため(苦笑)写真も少し撮影して後にすることにした。屋島スカイウェイは絶景のドライブルートなのになぁ・・・。
ここまで来たので、四国八十八ヶ所・第八十四番札所「屋島寺」に寄ってみることにする。ここの宝仏館(どちらかと言うと美術館ぽい)には、源平盛衰記絵巻物、源氏の白旗、屋島合戦屏風などが収蔵されていると聞いていた。何となく近代的な建物を見て、少し興醒めしてしまい入館せず、早々に退散した(笑)。
屋島スカイウェイを戻り、市街地を抜けて到着したのが「六萬寺」だ。ここは、屋島の行宮が完成するまで、安徳天皇の行在所(急場凌ぎの一時的な仮宮といったところ)となっていた所だ。中世までは大きな寺だったらしが、今はこぢんまりとした印象を受けた。ひっそりした境内の小高い場所に「安徳天皇生母徳子之碑」があり、祠には安徳天皇と建礼門徳子をお祀りしている。
高台からは住宅街が見える、当時は田畑だったのだろう、この風景を眺め平氏一門は何を考えていだろうか。滅び行く者の悲しみと絶望なのか、それとも都に戻りあの繁栄を夢見ていたのか。どちらにしても、「人とは儚きもの」などと柄にもなく考えてしまった。
さぁ、最終決戦の地に向かう。
香川県から約420kmの道のり「最終決戦の海」を両岸から望む。
香川県高松市から北九州市門司までのロングドライブ、老骨鞭打ち約420kmの道のりだ(苦笑)。普通なら5時間ほどで到着なのだが、7時間以上もかかってしまった、歳には勝てない・・・古戦場の訪問は翌朝にしてホテルで就寝。
翌日は門司レトロから平氏の痕跡がのこる「和布刈(めかり)神社」まで約2kmほど歩いた。オンシーズンに運行している観光列車に乗れば「和布刈神社」手前の「ノーフォーク広場駅」まで行くこともできる、良い天気なら歩くことをおすすめする(健康のためにも)。
「ノーフォーク広場駅」から5分もすれば、関門橋をくぐり神社に着く、橋の真下と言ってのいいくらいの所である。この辺りはとにかく歩けば、平氏を偲び供養する石塔などが数多く点在している。それと、歩いていると関門海峡の潮の流れの速さには驚く、それはもう急流のごとく速いのだ! 「早鞆(はやとも)の瀬戸」と呼ばれているのも納得できる、この流れのように源氏が平氏を滅ぼすのかと思えば感傷に浸り、流れを見つめていた。
門司側からの「壇ノ浦」を見終え、「和布刈神社」直ぐ横に入口のある「関門トンネル人道」で山口県側の「赤間神宮」を目指す。車で向かってもいいのだが、あまりに迂回が多く不便に思え徒歩で行くことにした。車だと約17分で徒歩なら約25分で「赤間神宮」に到着できる。この場所でこの旅が終わる、胸には万感の思いだ。
ゆっくりと、噛み締めるように歩いたが、あっと言う間に目的地に到着。ここ「赤間神宮」は安徳天皇を祭神とする天皇社、安徳御陵も直ぐ隣りにあり、平氏武将の墓「七盛塚」に守られ眠りについている。目の前には関門海峡「壇ノ浦」、この海底のどこかに「草薙の剣」があるのなら、安徳天皇がここに眠っているのも必然だと思う。
潮騒の中に琵琶法師の声が聞こえてくる・・・。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、
盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。
「春の夢のように」か、この旅も夢のように終わりを迎えた。帰りの道中で平氏縁の「厳島神社」に参拝して帰ろう、願うことは平氏の語りが後世に続くようにと。