第一〇四回 一一九代 光格天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
江戸時代  <後期> 一一八~一二一代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

月輪陵(光格天皇陵)

「月輪陵」と「閑院宮邸跡(京都御苑)

一一九代/光格(こうかく)天皇陵
諱/師仁 もろひと
在位年/西暦一七七九~一八一七年
陵形/九重塔
皇居/京都御所 

所在地 月輪陵 京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺内 
最寄駅 JR・京阪本線「東福寺」下車、約1,5km、徒歩約25分。

月輪陵

 「119代・光格天皇」は、「113代・東山天皇」の皇孫「閑院宮典仁親王」を父に持ち8歳で践祚、以後在位期間が39年間におよんだ天皇。先帝「後桃園天皇」が危篤の中、養子となったが立太子はなされず皇位についた。

 その御代には、「天明の大飢饉(1787年)」が発生した。「光格天皇」は事態を憂慮し、朝廷が幕政に口出しをしないという「禁中並公家諸法度」を破り、幕府に民衆救済を申し入れた。これに対し、幕府は米1500俵を京で暮らす民に与える施策を決定した。事態の深刻さから、幕府は天皇が「禁中並公家諸法度」を破ったことを不問とした。

 また、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に動き、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。

 天保11年(1840年)崩御、享年70歳。その御陵は「泉涌寺」内にある「月輪陵」に治定されている。

光格天皇誕生の「閑院宮邸跡(京都御苑)」

今回もやはり「119代・光格天皇」の足跡を探しに京都御苑へ来ました。ここ京都御苑の南端には、「光格天皇」がお生まれになった「閑院宮邸跡」がある。現在は「閑院宮邸跡収納展示館」となっていて無料で入館できる。京都市地下鉄「丸太町」下車すぐ。

「閑院宮邸跡収納展示館」の入り口、訪問時にツツジが満開だった。

角度を変えて撮影した「閑院宮邸跡収納展示館」、緑が目に沁みます。当時は美しい庭だったんだろう。

護浄院・光格天皇御包塚

天皇生誕地に訪れた後には、出産時に「光格天皇」を包んでいた胎盤などを待っている「護浄院」へ向かう。「閑院宮邸跡」のある「京都御苑」を東に向かって横切れば直ぐに到着! 近くて嬉しい(笑)。

日本最初の清荒神と言われる「護浄院」は意外に小じんまりとしたお寺だ。

境内を見渡せば直ぐに、目印の五輪塔が立っている。この塚は、天皇の健やかなご成育を祈願したものだそうだ。貴賤貧富、関係なく古今東西、親の思いは同じだな・・・今を感謝し次の旅に出ることにしよう。

タイトルとURLをコピーしました