一〇〇代(北朝六代) 後小松天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
南北朝時代 九六〜一〇一代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

深草北陵(後小松天皇陵)

後小松天皇陵

一〇〇代/後小松(ごこまつ)天皇陵
諱/幹仁 もとひと 
在位年/西暦一三八二~一四一二年
陵形/方形堂 
皇居/平安京 

所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町 
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。

 1382年、父の北朝5代・後円融天皇の譲位を受けて100代(北朝六代)「後小松天皇」として6歳で即位する。
6歳の幼き帝のため当然のごとく、父の「後円融上皇(北朝5代天皇)」による院政が行われた。

 そのころ室町幕府・3代将軍「足利義満」は、朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼしていた、そのことにより後円融上皇の関係は険悪であった。南北朝合一の翌年(1393年)、「足利義満」と対立していた「後円融上皇」が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強めた。将軍職を子の「義持(4代将軍)」に譲った後、武家として「平清盛」以来の太政大臣となる、事実上、上皇として「後小松天皇」を傀儡し権力を振るった。

 その御陵は、伏見区深草坊町にある深草北陵。別名「深草十二帝陵」とも称され、北朝・持明院統歴代天皇が葬られている。

酬恩庵 一休寺

 今回も十二帝が眠る「深草北陵(深草十二帝陵)」なので、紙面(画面)上が飽きてきたと思う(また、不敬なことを言ってしまった・苦笑)。なので「後小松天皇」に縁のある場所へ足を向けた。それが「一休さん」で有名な「酬恩庵 一休寺」、なぜ「一休宗純」なのかは「後小松天皇」の子と言われているからだ、その証拠に墓所は宮内庁が御陵として管理している。そして、ここには父「後小松天皇」から子へ下賜したと思われるものが展示されているのだ。

酬恩庵 一休寺
「酬恩庵 一休寺」の総門。「総門」は禅宗寺院における表門らしい。
酬恩庵 一休寺
まずは「本堂」でお参りをする、穢れを落とすつもりで。 
酬恩庵 一休寺
「方丈」へ、寺院内部の見学をすることにした。いきなり、あの「虎退治」の屏風があった! レプリカだと思うが。
今年は阪神タイガースが強いようだ、一休さんに退治されない事を祈る(笑)。
酬恩庵 一休寺
そして「宝物殿」には、父「後小松天皇」から下賜された硯などが展示されている。
酬恩庵 一休寺
境内を散策していると、一休さんの銅像と出くわし、橋には「このはしをわたるべからず」の立て札が!!
なんとも「とんち」が利いたお寺ですね、一休さん。
酬恩庵 一休寺
一休像の近くに建つ「開山堂」、青もみじが美しいのでシャッターを切った。
酬恩庵 一休寺
そして「一休禅師の墓所」へ
酬恩庵 一休寺
宮内庁の立て札には「後小松天皇皇子」と記されている、間違いですね! 一休さん!
門には菊の御紋の透かしが、そこから覗いてみた 。
酬恩庵 一休寺
美しい廟です、静謐感がある。でも、一休さんは女好きと聞いているが・・・、またまた不敬を言ってしまった。

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