還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
平安時天皇御陵踏破の旅
平安時代<後期>第六三回 七七代 近衛天後白河天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

法住寺陵(後白河天皇陵)

七七代/後白河(ごしらかわ)天皇陵
諱/雅仁 まさひと 
在位年/西暦一一五五~一一五八
陵形/方形堂 
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮

所在地 法住寺陵 京都府京都市東山区三十三間堂廻リ
最寄駅 京阪本線「七条」下車、徒歩約650m・約8分。

 74代・鳥羽天皇の第四皇子で、異母弟の76代・近衛天皇の急死により皇位を継ぐ。在位期間は3年と短いが、譲位後は34年にわたり院政を敷いた天皇。その治世は「保元・平治の乱」を代表とする戦乱が相次ぎ、有力者たちとの対立などで幾度となく権力の座から退場させられた。だが、そのたびに復権を果たす権力への執着が強い天皇。
 その御陵は、木曾義仲によって焼き討ちされた「後白河法皇の御所・法住寺殿」跡にある。その「法住寺」は後白河法皇の御陵を守る寺として江戸時代末期まで続いたが、明治に御陵と寺が分離されてしまった。
 
  

「三十三間堂」を通り過ぎ、「養源院」と「法住寺」の間の道が拝所へ向かう参道だ。
この道の入口に鉄門があり平日のみ開いている。
参道の突き当たりに宮内庁の案内板、右に行けば拝所に着く。

法住寺殿跡・三十三間堂

言わずと知れた「三十三間堂」、「法住寺殿」の鎮守寺として創建された。
境内には「法住寺殿跡」の址碑がある。 

新熊野(いまくまの)神社

御陵から南に約600m区下れば、後白河法皇が創建した、「法住寺殿」の鎮守社「新熊野神社」。
後白河法皇の木像がある、いつ、誰が作ったのか分らずじまいだ・・・。
紀州熊野より運ばれた「上皇手植えの樟」と言われる、
樹齢は900年の「影向の大樟(ようごうのおおくすのき)」。確かに立派だ。
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