還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
近現代 一二二~一二四代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
昭和天皇の戦後巡幸 最後の地「北海道」
一二四代/昭和(しょうわ)天皇陵
諱/裕 仁 ひろひと(迪宮・みちのみや)
在位年/西暦一九二六~一九八九年
陵形/上円下方
皇居/皇居(東京都)
所在地 武藏野陵 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地
最寄駅 JR・京王「高尾」下車、約2.5km、徒歩約40分。
「昭和天皇の戦後巡幸」とは、第二次世界大戦の終結後、「昭和天皇」自身の発案により、終戦の翌年1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(沖縄を除く、46都道府県)を行幸して各地を巡ったことをいう。その巡幸は、国民の不安を取り除き国民が復興への希望となった。
当初は短い日帰りの旅程であったが、次第に数週間に及ぶ長い旅程になっていった。行幸は天皇単独で行われていた、「香淳皇后」の同伴が「栃木県行幸」と「北海道行幸」2度あったのみと記録されている。「昭和天皇」は、巡幸初頭から占領地の沖縄県やソビエト連邦に占領され、北方領土に近い北海道の巡行をご希望なされていた。
昭和25年の記録によれば、昭和陛下が北海道巡行を強くご希望なされたとされている。だが、そのご希望は、占領軍最高司令官「マッカーサー」に伝わったが『しばらく延期して頂く事だ』の回答により潰えてしまった。当時の情勢を考えると、ソ連の侵略は現実的な脅威であり、北海道への海路には「浮遊機雷」の問題や津軽海峡に潜むソ連の潜水艦の危険なぞがあったからだ。その後も「昭和天皇」は、北海道行きを希望し続けていたこ。
その願いが叶えられたのが、1954年(昭和29年)8月8日から23日だった。
新千歳空港より乗り継ぎ、稚内空港へ到着。
車で日本国内・鉄道駅としては最北の「稚内」で観光気分。
稚内駅より車で約7分、稚内公園にある巡幸の地「樺太島民慰霊碑」に到着。
「氷雪の門(正式名称・樺太島民慰霊碑)」は、高さ8mの望郷の門、真ん中に立つ女性像の高さが2.4mと立派なものだ。1963年(昭和38年)8月の建立だ。
碑文にはこのように刻まれていた。
「人々はこの地から樺太に渡り、
樺太からここへ帰った
戦後はその門もかたく鎖された
それから18年、望郷の念止みがたく
樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、
木原豊治郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、
並びに全国からの心あたたまる協力によって、
ここに記念碑を造る」
「私が行けば北海道を何かの時 見捨てぬといふ証拠に」と常々、おっしゃられていた昭和陛下であったが・・・。戦後巡幸では、道内を全て巡ることを希望していたが、ここにお立ちになられることはできなかった。その胸の内をお察しすれば・・・。その後、1968年(昭和43年)にその願いが叶った。
「昭和天皇行幸啓記念碑」
御製「樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる」
御歌・皇后陛下「樺太につゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと ただいのりぬる」
「氷雪の門」のすぐ側に建つ「九人の乙女の碑」
終戦すぐ、樺太真岡への国際法違反行為のソ連軍侵攻に際し、
真岡郵便電信局で連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうちの、
9人が自決した・・・。
「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
と有名な最期の言葉が刻まれていた。胸が痛みます。
ソ連(ロシア)というのは今も昔も性根が腐っている、これは本当の気持ちだ。
プーチン!!
上・樺太師範学校を忍ぶ「教學之碑」
下・樺太からの引き揚げ者らでつくる「全国樺太連盟」により建立された「望郷の樺太慰霊碑」。
新千歳への復路、機内から樺太が見えた、静かに手を合わす。