還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
「伏見宮家」三代を継ぎ、太上天皇の追号を贈られた「貞成親王」

追号/後崇光(ごすこう)太上天皇
御名/伏見宮貞成親王
生没年/西暦1372年(応安5年)~1456年(康正2年)
時代/室町時代
続柄/後花園天皇(子)
陵名/伏見松林院陵
陵形/未 定
所在地 伏見松林院陵 京都府京都市伏見区新町522
最寄駅 京阪本線「中書島」下車、約六〇〇m、徒歩約八分。
「後崇光太上天皇」は世襲親王家・伏見宮家、初代「伏見宮栄仁親王」の子として生まれる。既に嫡男がいたため若年期に出家するはずだったが、とりやめとなった。時は流れ、1411年(応永一八年)四〇歳にしてようやく元服し「貞成」と名乗った。その五年後、1416年(応永二三年)に父「栄仁親王」が薨去、その翌年には伏見宮家を継いだ兄「治仁王」も中風を発病し急死した。その事で「貞成王」が三代目「伏見宮家」を継ぐこととなった。
1425年(応永三二年)、北朝系の「一〇一代・称光天皇」の皇太弟「小川宮」が薨去する、同系統の「貞成王」は親王宣下を受け、五四歳で「貞成親王」となる。また、病弱な「称光天皇」に継嗣がいないため、「貞成親王」とその子「彦仁王」が皇儲の候補となった。院政を敷いていた「後小松院(一〇〇代・後小松天皇)」の勅使により「彦仁王」を皇位継承者とするが、「貞成親王」に出家を命じ薙髪することになる。「称光天皇」が1428年(正長元年)崩御、親王宣下も立太子も経ずに「彦仁王」が践祚し「一〇二代・後花園天皇」に即位する。
実子の即位を見届けた「貞成親王」は八五歳にして薨去、その後「後崇光太上天皇」と追号された。

京阪・中書島駅を出て歩けばすぐ「伏見十石舟」の船着場。桜の季節は観光日和だ。

御陵に向かうため「新町通り」へ、変な「Lの字」踏切を2回渡る!? 本当に変な踏切だ・・・。

「新町通り」に面した御陵入口。

いつもの宮内庁さんだ(笑)。綺麗に整備されている太上天皇陵。

白砂が目に染みるほど美しい。


寄りで一枚。う~ん、この御陵の陵形が掴めない・・・。春の心地よい陽気だ、観光気分でもう少し後崇光太上天皇の足跡を巡ってみる。