還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二

御 名 他 戸 王(おさべおう)
生没年 天平宝字五年~ 宝亀六年
時 代 奈良時代
続 柄 四九代・光仁天皇(父)
御 名 井 上 内 親 王(いのえないしんのう)
諱 井上(いのえ)
生没年 養老元年~ 宝亀六年
続 柄 他戸王(子) 四九代・光仁天皇(配偶者) 四五代・聖武天皇(父)
墓 名 宇智陵
陵 形 円墳
所在地 奈良県五條市大野町二四七
最寄駅 JR和歌山線「大和二見」から他戸親王墓へ約三km、徒歩約四五分。他戸親王墓より約七五〇m、徒歩約一〇分。
同日に亡くなった母子の救いは、二人の墓所が近くにあることか
「他戸王」の母である「井上内親王(光仁天皇・皇后)」は「四〇代・天武天皇」皇女である。光仁天皇に対する呪詛、皇族殺害の嫌疑をかけられ皇籍を剥奪された上、息子である「他戸王」と同日共に薨去した皇后。この死については多くの謎がある。
「井上内親王」の立后と「他戸王」の立太子に尽力した左大臣「藤原永手(藤原北家)」が宝亀二年(七七一年)に他界し、藤原氏内部での勢力が「藤原北家」から「藤原式家」へ移った。皇位継承も「藤原式家」勢力拡大の思惑に利用できる皇太子を擁立するため、「井上内親王」に嫌疑をかけ廃后、その結果「他戸王」を廃太子に追い込んだと言われている。最終的には暗殺の可能性もあると伝わる。
二人の薨去後、天災地変が数多く起こり。「五〇代・桓武天皇」(他戸王の異母兄)の時代には近親者たちの早世し病気などが続き、「井上内親王」と「他戸王」の呪いではないかと言われた。そのため延暦一九年(八〇〇年)、「井上内親王」を再び皇后と追号し、御墓を山陵と追称とした。








