第八二回 九七代 後村上天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
南北朝時代 九六〜一〇一代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

檜尾陵(後村上天皇陵)

後村上天皇陵

九七代/後村上(ごむらかみ)天皇陵
諱/義良(即位後・憲良) のりよし/のりなが 
在位年/西暦一三三九~一三六八年
陵形/円丘 
皇居(行宮)/吉野行宮 賀名生行宮 八幡行宮 天野行宮 観心寺行宮 住吉行宮 

所在地 檜尾陵 大阪府河内長野市寺元 観心寺内 
最寄駅 南海高野線・近鉄長野線「河内長野」から、南海バス「観心寺」下車 、約700m、徒歩約7分。

 「97代・後村上天皇」は、「96代・後醍醐天皇(大覚寺統・南朝)」の第7皇子、先帝の数多い皇子の中で唯一の天皇である。
 父の「後醍醐天皇」が建武新政を始めると、まだ幼い「義良親王」は「北畠顕家」らとともに奥州多賀城へ下向する。その目的には、東国の武士たちを天皇(大覚寺統・南朝)方の後ろ盾にすることにあった。その後、「後醍醐天皇」の建武新政から離反した「足利尊氏」を追討するため、親王は「北畠親房・顕家父子」らと京を目指し、「後醍醐天皇」が逃れていた叡山で元服する。
 事態を優勢と見極めた「義良親王」と「北畠親房」は奥州へと帰還したのだが、「足利尊氏」との戦が続いていった。親王側は、各地転戦しながら「南朝」のある吉野へと到達し、そして、父の「後醍醐天皇」の譲位を受けて即位した。
 足利一族の内粉が激化し「足利直義・尊氏」が南朝に降参すると、北朝「祟光天皇」を廃位させた。一度は京への回帰を果たしたのだが、長くは続かず足利氏の反抗により都落ちをした。また、各地に行宮を置き京への回帰を願った。幼い頃から奥州に下向して辛酸をなめ、南北朝の戦乱に翻弄された天皇。
 その御陵は日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつになっている「観心寺」にある。
 
 

後村上天皇陵
御陵と観心寺行宮のある「観心寺」、大阪にも山深い古刹があったとは驚きだ。
後村上天皇陵
国宝建造物の「金堂」だ。
後村上天皇陵
境内の奥に宮内庁の表示が見える、そして石段が続いている・・・。
後村上天皇陵
後村上天皇陵
なずまず長い石段を昇り終われば御陵、脇道からも一枚。
天気が崩れてきた・・・。
楠木正成首塚
そして、境内には南朝に尽くし湊川で討ち死にした、「楠木正成公の像」と
討ち死に後、足利尊氏の命によってその首が「観心寺」に届けられ、祀られている「楠木正成首塚」がある。 

 
 
金剛寺(天野行宮)

摩尼院
「南朝行在所跡」があった「金剛寺」、上が重要文化財の「楼門」で、
下が政務をしていた「摩尼院」前の石碑。
観月亭
上・境内には重要文化財が多く残されている、写真右側の「多宝塔」は日本最古と言われている。
下・後村上天皇御在所時代に「観月亭」が東側に突き出す形で付けられたらしい。

 
 

住吉行宮と住吉大社

住吉行宮跡
南海本線「住吉大社」より徒歩約12分で「住吉行宮跡(正印殿跡)」に着く、ここは後村上天皇が崩御された終焉の地だ。
完全な住宅街の一画にあった、昔はこの辺りまで「住吉大社」の境内だったのだろうか。
住吉大社
駅の方に戻り「住吉大社」で参拝。鳥居前には阪堺軌道(チンチン電車)が走っている、
しばらく待って鳥居と電車を絡めて撮影したかったが・・・時間がなかった(苦笑)。


タイトルとURLをコピーしました