還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
南北朝時代 九六〜一〇一代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
檜尾陵(後村上天皇陵)
九七代/後村上(ごむらかみ)天皇陵
諱/義良(即位後・憲良) のりよし/のりなが
在位年/西暦一三三九~一三六八年
陵形/円丘
皇居(行宮)/吉野行宮 賀名生行宮 八幡行宮 天野行宮 観心寺行宮 住吉行宮
所在地 檜尾陵 大阪府河内長野市寺元 観心寺内
最寄駅 南海高野線・近鉄長野線「河内長野」から、南海バス「観心寺」下車 、約700m、徒歩約7分。
「97代・後村上天皇」は、「96代・後醍醐天皇(大覚寺統・南朝)」の第7皇子、先帝の数多い皇子の中で唯一の天皇である。
父の「後醍醐天皇」が建武新政を始めると、まだ幼い「義良親王」は「北畠顕家」らとともに奥州多賀城へ下向する。その目的には、東国の武士たちを天皇(大覚寺統・南朝)方の後ろ盾にすることにあった。その後、「後醍醐天皇」の建武新政から離反した「足利尊氏」を追討するため、親王は「北畠親房・顕家父子」らと京を目指し、「後醍醐天皇」が逃れていた叡山で元服する。
事態を優勢と見極めた「義良親王」と「北畠親房」は奥州へと帰還したのだが、「足利尊氏」との戦が続いていった。親王側は、各地転戦しながら「南朝」のある吉野へと到達し、そして、父の「後醍醐天皇」の譲位を受けて即位した。
足利一族の内粉が激化し「足利直義・尊氏」が南朝に降参すると、北朝「祟光天皇」を廃位させた。一度は京への回帰を果たしたのだが、長くは続かず足利氏の反抗により都落ちをした。また、各地に行宮を置き京への回帰を願った。幼い頃から奥州に下向して辛酸をなめ、南北朝の戦乱に翻弄された天皇。
その御陵は日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつになっている「観心寺」にある。
金剛寺(天野行宮)
住吉行宮と住吉大社