第一二六回 慶光天皇(閑院宮典仁親王)陵
追尊天皇陵編-06

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

明治天皇から尊号を贈られた「追尊天皇」

慶光天皇陵(盧山寺陵)

尊号/慶光(きょうこう)天皇
御名/閑院宮典仁親王
生没年/西暦1733年(享保18年)~1794年(寛政6年)
時代/江戸時代
続柄/光格天皇(子) 
陵名/盧山寺陵
陵形/多宝塔

所在地 盧山寺陵 京都府京都市上京区北之辺町 廬山寺内 
最寄駅 京阪本線「出町柳」下車、約七五〇m、徒歩約一〇分。

 「慶光天皇(閑院宮典仁親王)」は「一一三代・東山天皇」の皇子の第二王子として生まれる、子には「一一九代・光格天皇」を持つ追尊天皇。

 1742年(寛保二年)に「一一四代・中御門天皇」の猶子となり、翌年、親王宣下を受けた。その後、「中御門天皇」の皇女「成子内親王」を妃としたのだ。1753年(宝暦三年)に実父「直仁親王」の薨去によって「閑院宮」を嗣ぐことになった。1779年(安永八年)、「一一八代・後桃園天皇」が男系を残さず崩御すると、朝廷は「典仁親王(慶光天皇)」の第六王子として生まれた「師仁親王」を践祚した、後の「一一九代・光格天皇」となった。

 「光格天皇」が即位し九年の1789年(寛政元年)に、父「典仁親王」の宮中での地位が大臣より低ことを嘆き「太上天皇」の尊号を贈ろうとした。その旨を側近の公家衆より江戸幕府に伝えるが、幕府側・老中は『皇位につかない私親への尊号宣下は名分を乱すもの』として拒絶した。その後も朝廷側は譲らず、繰り返し交渉をしたが幕府は尊号宣下を承認しなかった。1792年(寛政四年)、「光格天皇」も尊号を諦め断念した、その二年後に「典仁親王」が薨去する。

 だが時代が変わり、1884年(明治一七年)「典仁親王」の九十年忌に「一二二代・明治天皇」の高祖父であることを理由に、「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号を「明治天皇」より贈られたのだ。

京阪本線「出町柳」から徒歩10分と近い「盧山寺」、西側には「京都御苑」がある。

そして、日本が誇るソープオペラ「源氏物語」を「紫式部」がここで書いた。あまり興味はない(すみません)。 

境内にある「源氏庭」の奥に御陵への参道があった。

石標から30mも進めば御陵が現れる。

不敬だが御陵の中を除くと慶光天皇陵以外に15墓。きっと真ん中の多宝塔が慶光天皇のものだと思い撮影する。望遠レンズで撮影するほど不敬者ではない、ちょっと遠いが致し方なし。

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