還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
平安時代<後期>第六二回 七六代 近衛天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二

安楽寿院南陵(近衛天皇陵)

七六代/近衛(このえ)天皇陵
諱/躰仁 なりひと 
在位年/西暦一一四一~一一五五
陵形/多宝塔 
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮

所在地 安楽寿院南陵 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町
最寄駅 近鉄京都線「竹田」下車、徒歩約550m・約7分。

 父の鳥羽上皇(74代・鳥羽天皇)の望みにより、生後わずか1か月で異母兄の75代・崇徳天皇の養子となった。同年に立太子、3歳で崇徳天皇の譲位を受けて即位した天皇。在位中は父の鳥羽法皇が院政を敷いた。鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。その後、17歳の若さで政治の表舞台に立たないまま崩御された。
 その御陵は、鳥羽法皇が皇后の藤原得子(美福門院)の墓所・三重塔として建てたものだったが、皇后の遺言通りに遺骨は高野山に納められた。からの三重塔に(何も納められていない)、崩御より8年後(1163年)近衛天皇の遺骨をここに移した。
 当初は三重塔であったが、1596年の慶長伏見地震の被害で倒壊、豊臣秀頼の命により多宝塔として再建された。形式では「多宝塔」で、これは歴代天皇陵では唯一である。
 
 

安楽寿院の土塀沿いに歩けば、すぐに見慣れた宮内庁の表示板。
これが天皇陵唯一の「多宝塔」、さすがは秀頼公の再建だ。豊臣好みの派手さがある気がした。

近衛天皇火葬塚

京福北野線「北野白梅町」より徒歩で約1,8km、約25分の道のり。
バスは乗り馴れず歩いた(苦笑)。この細い道が参道だ!
参道の入口の目印として「錬心会」という武道場の看板があった。
細い道を10mほど行けば、袋小路に火葬塚があった。マンションと住宅の狭間にだが、綺麗に整備されている。
堀に囲まれた塚の中心に石塔らしきものが埋まっている!?
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