還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二

御 名 他 戸 王(おさべおう)
生没年 天平宝字五年~ 宝亀六年
時 代 奈良時代
続 柄 四九代・光仁天皇(父)
墓 名 他戸親王墓
墓 形 円墳
所在地 奈良県五條市御山町六八一
最寄駅 JR和歌山線「大和二見」より約三km、徒歩約四五分。
立太子より一年で幽閉された悲しき廃太子
「他戸王」は「三八代・天智天皇」の孫である「四九代・光仁天皇」の皇子として七六一年(天平宝字五年)に生まれ(推定)、「四五代・聖武天皇」の皇女「井上内親王」を母に持つ「四〇代・天武天皇」の女系来孫(五代後の子孫)にあたる。
父の「白壁王(後の光仁天皇)」は「天智天皇」の孫であるが、当時の皇統は「天武系」に移されていることで、高位官職であるが「大納言」を甘んじていた。だが、「四八代・称徳天皇」の時代、「天武系」の皇族は皇位継承を巡る争いで多くが粛清されたこにより、次の天皇にふさわしい人物が居なくなった。この状況下で「天武系」の母を持つ「他戸王」が注目されるようになった。
やがて「称徳天皇」崩御に伴い、「藤原永手」を中心とした公家によって「白壁王」が皇位継承し「四九代・光仁天皇」即位した。その翌年に「他戸王」は皇太子として立てられたのだが、立太子より一年ほどで母の「井上内親王(光仁天皇・皇后)」が、夫である天皇を呪詛したという罪を賭けられ皇后を廃された。また、これに連座する形で「他戸王」が廃太子となった。
更に翌年、「難波内親王(光仁天皇の姉)」薨去したことが、「井上内親王」の呪詛による殺害と嫌疑が掛かり、母子共に皇籍を離れ庶人に落とされた。宝亀六年(七七五年)幽閉先の大和国宇智郡(奈良県五條市)没官の邸で、「他戸王」は母と共に急死したと伝わる。突然の死だったようで暗殺説もある。
その御墓は、奈良県五條市御山町の田園にある丘の上にあり、裏は集落の集合墓地になっている。言い伝えによると、この御墓を整備するため人の手が入る、必ず雨が降ると言われている、悲しき廃太子の御墓。


道の終点に共同墓地があり、その隣に「他戸親王墓」があった。





