五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
香隆寺陵(二条天皇陵)
七八代/二 条(にじょう)天皇陵
諱/守仁 もりひと
在位年/西暦一一五八~一一六五
陵形/円丘
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮
所在地 香隆寺陵 京都府京都市北区平野八丁柳町
最寄駅 京福北野線「北野白梅町」下車、徒歩約550m・約8分。
先帝・後白河天皇の第一皇子。祖父である74代・鳥羽天皇(法皇)の皇后藤原得子(美福門院)に育てられ出家する予定だったが、76代・近衛天皇の崩御に伴い鳥羽法皇の強い意向によって皇位継承者となる。その後、後白河天皇の即位とともに親王宣下を受け、立太子となった。しかし、この事柄を叔父の75代・崇徳天皇(上皇)らのが不満に思い、1156年「保元の乱」と流れていく。
1158年、後白河天皇から譲位を受け16歳で即位、第78代二条天皇となった。その翌年、「藤原信頼、源義朝」により「平治の乱」が起こり、二条天皇は御所に幽閉された。これを「平清盛」が救っい出した。父の院政を嫌い親政を敷いたが、23歳の若さで崩御した。
その御陵は、「香隆寺」の野で火葬されたのち「香隆寺本堂」に遺骨が納められて、その後に「香隆寺本堂」から境内に造営された「三昧堂」に改葬される。 この「香隆寺」は由緒ある寺院だったが、鎌倉時代以降に廃絶して、その正確な位置は不明となった。現在の京都市北区の衣笠山から船岡山一帯と諸説があり、明治22年(1889年)に、その跡地を推定して、二条天皇香隆寺陵が造られた。
八条院暲子内親王墓