還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
江戸時代 <後期> 一一八~一二一代天皇陵
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二
月輪陵(後桃園天皇陵)
一一八代/後桃園(ごももぞの)天皇陵
諱/英仁 ひでひと
在位年/西暦一七七〇~一七七九年
陵形/九重塔
皇居/京都御所
所在地 月輪陵 京都府京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
最寄駅 JR・京阪本線「東福寺」下車、約1,5km、徒歩約25分。
「118代・後桃園天皇」は、13才の元服で、かねてより幕府との取り決めの通り、叔母である「117代・後桜町帝」より譲位された。徳川幕府10代将軍・家治の
ころから、時勢はますます勤王思想に流れていった。「後桃園天皇」は病弱で父「116代・桃園天皇」と同じく22歳で崩御している。なお、急逝による後継の準備のため、実際の日よりも後に崩御が発表されている。在位日が崩御後も続いていたと記述には書かれている。
その御陵は「泉涌寺」内にある「月輪陵」に治定されている。
「月輪陵」を再訪した時に教えてもらった場所。御陵を側面から眺めることができる。
妙法院門跡 「恭礼門院(後桃園天皇母)」の仮御所
今回も「後桃園天皇」の足跡を求めて京阪本線「七条」から「妙法院門跡」へ向かった。約徒歩15分、約800mで到着した。
「後桃園天皇」は若くして崩御しているため、足跡が見当たらず・・・天皇の御生母「恭礼門院」の仮御所訪問となった。ここは「天明の大火」に被災されたときの仮住まいで、すなわち仮御所なのです。
徳川和子(江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の五女)が「108代・後水尾天皇」に入内した時の女御御殿を下賜された建築物がある。この奥にある大書院と共に重要文化財だそうだ。
本堂を見て思った、小ぶりで辛子色の土壁がなんとも言えず可愛らしい(笑)。
「宸殿」に向かう途中に案内板を読むと、幕末の「七公卿都落ち」のことが書かれていた。七公卿が長州へ落ちる前日、「宸殿」で一泊したと伝えられる場所らしい。相当、悔しかっただろうな・・・、私も「後桃園天皇」の足跡を探しきれなかったのが悔しいです~。
現在の「宸殿」は明治31年の再建・・・。